ものである。そうして、その洗練された生命の表現によって、仮面と装束とを舞わせる舞台芸術を吾人は「能」と名付けて、鑑賞しているのである。
 右に就いて私の師匠である喜多|六平太《ろっぺいた》氏は、筆者にコンナ話をした事がある。
「熊(漢音ゆう)の一種で能(のう)という獣が居るそうです。この獣はソックリ熊の形でありながら、四ツの手足が無い。だから能の字の下に列火が無いのであるが、その癖に物の真似がトテモ上手で世界中に有《あり》とあらゆるものの真似をするというのです。『能』というものは人間が形にあらわしてする物真似の無調法さや見っともなさを出来るだけ避けて、その心のキレイさと品よさで、すべてを現わそうとするもので、その能《のう》という獣の行き方と、おんなじ行き方だというので能と名付けたと云います。成る程、考えてみると手や足で動作の真似をしたり、眼や口の表情で感情をあらわしたり、背景で場面を見せたりするのは、技巧としては末の末ですからね」
「能」という名前の由来、もしくは「能」の神髄に関する説明で、これ位|穿《うが》った要領を得た話はない。東洋哲学式に徹底していると思う。

     能と芝居

 能と芝居とを比較してみる。前述の六平太氏の話が具体的に説明されるばかりでなく、芸術界に於ける能の立場が一層ハッキリとなると思う。
 誰でも知っている通り、一般の芝居の舞台面には写実の分子が夥《おびただ》しく含まれている。……背景をパノラマ式にする。月を切り抜いて見せる。雨や雪を降らせる。前景には本物の家や木立を並べる。火を燃やし湯を沸かす。生きた猿や馬を曳《ひ》き出す。風や浪の音。鳥や虫の声。汽車の音まで写実を利かせる。又、斬られると血を流し、死にかけると青い粉を顔に塗るなど、数えれば数限りもない。
 併《しか》し遺憾ながら似せ物は本物に敵《かな》わない。小豆と石油缶の音は、実物の汽車よりも間の抜けた音を出す。人工のスパークは大空のスパークほど凄くない。結局するところ、そのような写実装置の真実味を観客に受け取らせるのはその中で芝居をやる俳優の技巧、心境、腕前という事になる。ドンナ立派な背景や大道具、小道具を使っても、役者がヘボだと、ただそんな物の並んでいるだけの、間の抜けた舞台面になる。これに反して名優が演ずると、すべての道具が生きて来る事が誰の眼にもわかる。
 そこを悟ったもの
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