鉄鎚を振る。掴み合う。斬り合う。撃ち合う……なぞと無限に千差万別しているのであるが、そんな動作の一つ一つが繰り返し繰り返し洗練されて来ると、次第に能に近づいて来る。
たとえば、剣術の名手と名手が、静かに一礼して、立ち上って、勝敗を決する迄の一挙一動は、その悉《ことごと》くが五分の隙のない、洗練された姿態美の変化である。極度に充実緊張した、しかも、極度に軽い精神と肉体の調和である。その静止している時には、無限のスピードを含んだ霊的の高潮度が感ぜられる。又は烈しく切り結んでいるうちに、底知れぬ霊的の冷静味がリズム化して流れている事を、客観的にアリアリと感ぜられる。……そうした決闘はそれ自身が「能」である。
弓を弾く人は知って居られるであろう。弓を構えて、矢を打ち番《つが》えて、引き絞って、的に中《あた》った音を聞いてから、静かに息を抜くまでの刹那刹那に、云い知れぬ崇高な精神の緊張が、全身に均衡を取って充実して、正しい、美しい、且つ無限の高速度をもった霊的リズムの裡《うち》に、変化し推移して行く事を、自分自身に感ずるであろう。能を演ずる者の気持ちよさはそこに根柢を置いている。能の気品はそうした立脚点から生れて来るのである。
こうした「能」のあらわれは、格風を崩さぬ物の師匠の挙動、正しいコーチと場数を踏んだスポーツマンのフォームやスタイルの到るところにも発見される。……否、そのような特殊の人々のみに限らず、広く一般の人々にも、能的境界に入り、又は能的表現をする人々が多々あるので、そうした実例は十字街頭の到る処に発見される。
千軍万馬を往来した将軍の風格、狂瀾怒濤に慣れた老船頭の態度等に現わるる、犯すべからざる姿態の均整と威厳は見る人々に云い知れぬ美感と崇高感を与える。その他一芸一能に達した者、又は、或る単純な操作を繰り返す商人もしくは職人等のそうした動作の中には多少ともに能的分子を含んでいないものはない。
筆者をして云わしむれば人間の身体のこなし[#「こなし」に傍点]と、心理状態の中から一切のイヤ味を抜いたものが「能」である。そのイヤ味は、或る事を繰返し鍛錬することによって抜き得るので、前に掲げた各例は明かにこれを裏書している。
畢竟《ひっきょう》「能」は吾人の日常生活のエッセンスである。すべての生きた芸術、技術、修養の行き止まりである。洗練された生命の表現その
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