出来る人はあまりないようである。
「上品だからいい」「稽古に費用がかからないからいい」「不器用な者でも不器用なままやれるからいい」なぞといろいろな理屈がつけられている。又、実際そうには相違ないのである。しかし、それはホンの外面的の理由で「能のどこがいい」とか「謡いの芸術的生命と、自分の表現欲との間にコンナ霊的の共鳴がある」とか言うような根本的の説明には触れていない。要するに、
「能というものは、何だか解らないが、幻妙不可思議な芸術である。そのヨサをしみじみ感じながら、そのヨサの正体がわからない。襟を正して、夢中になって、涙ぐましい程ゾクゾクと共鳴して観ておりながら、何故そんな気持になるのか説明出来ない芸術である」
 というのが衆口の一致する処らしい。
 正直の処、筆者もこの衆口に一致してしまいたいので、これ以上に能のヨサの説明は出来ない事を自身にハッキリと自覚している。又、真実の処、能のヨサの正体をこれ以上に説明すると、第二義、第三義以下のブチコワシ的説明に堕するので、能のヨサを第一義的に自覚するには「日本人が、自分自身で、舞いか、囃子をやって見るのが一番捷径」と固く信じている者である
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