は最高尚な生活であろう。お能というのは、おおかた、ほかの芸術の一番面白くない処や辛気臭い処、又は無器用な処や乙に気取った内容の空虚な処ばかりを取り集めて高尚がった芸術で、それを又ほかの芸術に向かない奴が、寄ってたかって珍重するのだろう……」
と言うような諸点がお能嫌いの人々の、お能に対する批難の要点らしく思われる。
更に今一歩進んで、
「能というものは要するに封建時代の芸術の名残りである。謡いも、舞いも、囃子も、すべてが伝統的の型を大切に繰り返すだけで、進歩も発達もない空虚なものである。手早く言えば一種の骨董芸術で、現代人に呼びかける処は一つもない。世紀から世紀へ流動転変して行く芸術の生命とは無論没交渉なものである」
なぞと言うのはまだ多少お能の存在価値を認める人々の言葉である。
「仮面を冠って舞うなんて芸術の原始時代の名残りだ。その証拠に能楽の歌や節や、囃子の間拍子や、舞いの表現方法までも幼稚で、西洋のソレとは比較にならない程不合理である。あんな芸術が盛んになるのは太平の余慶で、寧ろ亡国の前兆である」
と言うに到っては、正に致命的の酷評と言っていいであろう。
能好き
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