リさせられたものであった。あんまり五月蠅《うるさい》ので或るとき、
「……叔父さん。いくら僕が電話好きでもこれじゃトテモ遣り切れませんよ。済みませんが彼家《あすこ》にも電話を引いて下さいナ」
と哀願してみたら叔父は怫然《ふつぜん》として、
「馬鹿野郎……あの家《うち》に電話を取って堪《たま》るか……折角ノンビリと気保養している時間を、外から勝手に掻き廻わされるじゃないか」
とか何とか一ペンに跳ね付けられてしまったので、いよいよガッカリ、グンニャリした事もあった。
ところが不思議なことに、それから二た月ばかりも経つと、叔父は前よりも一層盛んに待合入りを始めるようになった。店の仕事も私に代理させる事が多くなった。おまけに今まで一滴も口にしなかった酒を飲むようになって、時々は伊奈子が作ったというカクテールの瓶を店まで持ち込んで来る事すらあるようになった。無論、それ等のすべては皆、彼女の手管《てくだ》に違いなかったので、彼女はこうして叔父を翻弄しつつ、その魂と肉体を一分刻みに……見る見るうちに亡ぼして行こうと試みている事がわかり切っていた。叔父も亦、それを充分に承知していながら、彼女のために甘んじて骨抜きにされて行くのが何ともいえず嬉しくて、気持ちがよくて仕様がないという風で、つまり叔父は彼女に接してから後《のち》、一種の変態性慾である、マゾヒストの甘美な境界へズンズン陥って行きつつある……彼女の小さな赤い舌に全身の体液を吸い取られて、骨の髄までシャブリ上げられたら、どんなにかいい心持ちであろう……というような、たまらない慾望に憧憬《あこが》れつつある……そうして伊奈子のスゴ腕にかかって、自分の生命も財産も根こそぎ奪い去られるであろうドタン場を眼の前に夢想しつつ、スバラシイ加速度で生活状態を頽廃させて行きつつある……という叔父の心理状態がカクテールを入れた魔法瓶の栓を抜く刹那《せつな》の憂鬱を極めた表情を見ただけでも明らかに察しられるのであった。
しかし、同時に、そうした叔父の態度や表情を、毎日見せつけられて行くうちに、私はフト妙な事を考え初めたのであった。……彼女のそうした計画を、そのギリギリ決着のところで引っくり返してやったら、どんなにか面白いだろう……と……。そうするとその考えが、見る見るうちに云い知れぬ魅力をもって私の頭の中に渦巻き拡がって行くのを、私はどうする事も出来なくなったのであった。
私は、いつの間にか新聞も小説も読まなくなって、二階の万年床に引っくり返りながら、葉巻ばかり吹かせるようになっている事に気が付いた。今までは架空の小説ばかり読んでいたのが、今度は、自分自身に怪奇小説の中に飛び込んで、名探偵式の活躍を演出しなければならぬ役廻りになって来た事を、ある必然的な運命の摂理ででもあるかのように繰り返し繰り返し考えた。そうするとその都度《たび》に胸が微かにドキドキして、顔がポーッと火熱《ほて》るような気がしたのは今から考えても不思議な現象であった。
私は叔父の財産を惜しいとも思わなければ、伊奈子の辣腕《らつわん》を憎む気にもなれなかった。あの真赤に肥った、脂肪《あぶら》光りに光っている叔父の財産が、小さな女の白い手で音もなくスッと奪い去られる。……あとで叔父がポカンとなって尻餅を突いている……という図は寧《むし》ろ私にとって、小説や活動以上に痛快な観物《みもの》に違いなかった。私が空想の世界でしか実現し得ない事を、彼女が現実世界でテキパキと実現して行く腕前の凄さに敬服する気持ちさえも、私の心の底に湧いて来るのであった。
けれども今一歩進んでその伊奈子が腕に縒《より》をかけた計画を、その終極点のギリギリのところで引っくり返したら伊奈子はどんな顔をするだろう。そうして開いた口が閉《ふさ》がらずにいる彼女に「天罰思い知れ」とか何とかいう、いい加減な文句をタタキ付けて、泥の中に蹴たおして、手も足もズタズタに切れ千切《ちぎ》れるような眼に会わしたら、どんなにかいい心持ちだろう。こう思うと、私の身うちの方々が、不可思議な快感でズキズキして来るように感じた。
私はそれから毎日毎日その計画ばかり考えていた。けれども残念な事に、そうした色んな計画が、天井に吹き上げる煙草の烟《けむり》と共に、数限りなく浮かんでは消え、消えては浮かみして行くうちに、私はいつも失望しないわけに行かなかった。私があらん限りの智慧を絞って作り上げた伊奈子タタキ潰しの計画は、表面上どんなに完全に見えていても、どこかに空想らしい弱点や欠点が潜んでいることを、後で考え直して行くうちにキット発見するのであった。言葉を換えて云えば伊奈子が叔父を陥れて行きつつある変態性慾の甘美世界から、コッソリと叔父を救い出す方法が発見されない限り……又は、伊奈子がこの妖婦的な性格をスッカリなくして、初恋と同様の純真さをもって私に打ち込んで来ない限り、私の計画は絶対に、実行不可能と云ってよかった。
こうして伊奈子を血塗《ちまみ》れにして、七転八倒させつつ冷笑していようという私の計画は、私の頭の中でいくつもいくつもシャボン玉のように完成しては、片っ端から、何の他愛もなく瓦解幻滅して行った。そうしてそのたんびに、
「ホホホホホホホホホホホホ」
と笑う伊奈子の声を幻覚するのであった。
十一月に入ると間もなく、私は今までにない寒さを感じ始めたので、高価《たか》い工賃を払って昼間線《ちゅうかんせん》を取って、上等の電気|炬燵《ごたつ》を一個、敷き放しの寝床の中に入れた。そうしてその日は仕事の始末をソコソコにして潜り込んでみるとその暖かくて気持ちのいい事、身体《からだ》中の血のめぐりがズンズンとよくなるのがわかる位で、私はツイ何もかも忘れてウトウト眠り初めたのであったが、間もなく階下でけたたましく電話のベルが鳴り出したようなので、私は又渋々起き上った。眠い眼をこすりこすり狭い階段をよろめき降りて電話にかかった、
「オーイオーイオーイ……モシモシイ……モシモシイ……わかったよわかったよ。オーイオーイオーイオーイ……」
といくら呼んでも頑強にベルを鳴らしていたが、やがてピタリと震動が止むと、
「オホホホホホホホホ」
という笑い声が、真っ先きに聞えた。
「……あなた愛太郎さん。御無沙汰しました。……叔父さんもう帰って?……」
「エエ……一時間ばかり前に……」
「あなた声が違うようね。お風邪でも召したの……」
「……寝ていたんです……」
「まあ……お昼寝……この寒いのに……」
「……エエ……まあそうです……」
「あたしあなたにお話したい事があるのよ……今から伺ってもいい?……」
「エエ……よござんす……キタナイ処ですよ」
「ええ。知ってますわ。誰も居ないでしょう?」
「ええ……僕一人です。しかし……何の用ですか……」
「オホホホホホホホホホ」
私は表の扉《と》の閂《かんぬき》を外すと又二階に上って、あたたかい夜具にもぐり込んだ。しかし、不思議とこの時に限って、彼女に対する何等の期待も計画も浮ばなかった。ただ、頭の底にコビリ付いている残りの睡たさを貪りながら、いつの間にかグッスリと眠っているらしかったが、そのうちに小さな咳払いを耳にしてフッと眼を醒ますと間もなく、何ともいえない上品な香水の匂いが、悩ましい女の体臭と一緒にムーッと迫って来たので、一寸《ちょっと》の間《ま》狐に抓《つま》まれたような気持ちになった。そうしてよく眼をこすって見ると、私の枕元の暗い電燈の下に、青い天鵞絨《ビロード》のコートと、黒狐の襟巻に包まれた彼女が、化粧を凝《こ》らした顔と、雪白のマンショーを浮き出さして、チンマリと坐っているのであった。
「オホホホホホホホ」
「……………」
× × ×
彼女は私を一気に、空想の世界から現実の世界へ引っぱり出してしまった。私は、それから後《のち》、殆んど毎日のように電話をかけて来る彼女の命令のまにまに、店を仕舞《しま》うとすぐに身じまいをして、隣家《となり》の裏口から抜け出して、そこいらで待ち合わせている彼女と肩を並べながら夜の街々を散歩するようになった。生れて初めての背広服を派手な格子縞で作らせられたのはその時であった。カンガルーとエナメルの高価《たか》い靴を買わされたのも同時であった。帽子もゴルフ用の鳥打ちや、ビバや、お釜帽《かまぼう》を次から次に冠らせられた。それにつれて本箱の抽斗《ひきだ》しに突込んだままになっていた皺苦茶の紙幣や銀貨の棒がズンズンと減って行った。
私と彼女とが同じ家に這入る事は殆んど稀であった。彼女は、F市内の到る処に在る密会の場所を知っているかのように、いつも意外千万な処へ私を引っぱり込むことが次第に私を驚かし初めた。牡蠣《かき》船だの、支那料理屋の二階だの、海岸の空《あき》別荘だの、煙草屋の裏座敷だの……その中《うち》でも特に舌を捲いたのは、まだ明るいうちに或る大きな私立病院の玄関から、見舞人のような態度で上り込んで、奥の方に空《あ》いていた特等病室の藁蒲団の上に落ち付いた時であった。その時に彼女は今までにない高い情熱に駆られたらしく、蝋《ろう》のように青褪めた中から潤んだ眼を一パイに見開きつつ、白い歯を誇らし気に光らして見せたのであったが、そうした彼女の嬌態《きょうたい》を、ポケットに両手を突込んだまま見下しているうちに、私はフト、形容の出来ないヒイヤリとした気持ちになった。
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……この女は、こうした思い切った遊戯の刺戟によって、自分自身の美をあらゆる深刻な色彩に燃え立たせ得る術を心得ている。そうして異性の弱点をあらゆる方向から蠱惑《こわく》しつつ、その生血《いきち》を最後の一滴まで吸いつくすのを唯一の使命とし、無上の誇りとし、最高の愉楽と心得ている女である。
……叔父が彼女から逃げまわるようになったのも、こうした彼女のプライドに敵しかねたからである……。
……彼女は暗黒の現実世界に存在する、底無しの陥穽《おとしあな》である……最も暗黒な……最も戦慄すべき……。
……陥穽《おとしあな》と知りつつ陥らずにはいられない……。
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というような感じが、みるみるハッキリして来たので……。
……けれども亦、一方に伊奈子には案外神経質な、用心深いところも、あるにはあった。彼女が私を引っぱり出してこんな事をして遊びまわるのは、叔父の待合に入浸《いりびた》っているか、又は旅行している間に限っていたので、公園前の自宅に私を引っぱり込むような事は絶対にしなかった。伊奈子のそうした態度の中には、男の嫉妬というものが如何に恐ろしいかを知っている気持ちがハッキリと現われていた。多分彼女は叔父に関係する以前に、そんな問題でヒドク懲《こ》りさせられた経験があるらしいので、しかもその相手が西洋人ではなかったろうかという事までも同時に察せられた位であった。
ところが、彼女のこうした用心深さが物の見事に裏切られたのは、それから一箇月と経たない時分の事であった。
それは十二月の初めの割合いにあたたかい日であった。その前後の一週間ばかりというもの市場《しじょう》が頗《すこぶ》る閑散であったために、これぞという仕事もなく、午後四時過になると店には叔父と私と二人切りしか居ないようになったが、その時に店のストーブの前で、カクテールを飲み飲みしていた叔父が突然に、こんな事を云い出して私をヒヤリとさせた。
「お前はこの頃伊奈子と散歩を始めたそうだな……ウン……それあいい事だ。俺もセッカクお前にすすめようと思っていたところだ。引けあとの電話は、大抵、明日《あす》の朝きいても間に合う事ばかりだからナ……しかし、あんまり夜更《よふ》かしをすると身体《からだ》に触《さわ》るぞ」
これを聞いた時には流石《さすが》の私も、どう返事をしていいか解らないまま固くなって叔父の顔を見た。けれども、その次の瞬間にはホッと安心をすると同時に、又、それとは全く違った意味で驚きの
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