様《さよう》に実世間とかけ離れた世界に生きている人間であった。私は私の神経が、実世間のいかなる問題に触れても、すぐに縮み込む程に鋭いものであることをよく知っていた。私は現実の世界に在る太陽や、草木や、土や風なぞいうものが、空想の世界にあらわれる太陽や草木風景なぞよりも遥かに単調子な、平凡な、荒々しいものであることを知り過ぎる位知っていた。同様に、金《かね》とか、女とかいうものも実際に手に取ってみると存外下らない、飽き飽きしたものである上に、そんなものに対する慾望を持続して行くためには実に馬鹿馬鹿しい、たまらないほど夥しい苦労を続けなければならぬであろうことを考えるだけでもウンザリした。私は現実の一切に諦らめをつけて、空想の世界に寝ころんでいるのが、私に一番似合い相当した生活であると信じていた。
だから私はこの数年の間に、叔父の自宅らしい処から一遍も電話がかからないのを多少不思議に思いつつも、それについて探偵してみようなぞいう勇気を起した事はなかった。一方に月給を取る器械みたような店員たちも、この事に就《つ》いて私と雑談するような事は絶無であった。
然るに…………
忘れもしない去年(大正十三年)の八月の初めの珍らしくドンヨリと曇った午後の事であった。店を仕舞《しま》ってから給仕に窓や扉《と》を明け放させたまま、電話の前の自分の机に倚《よ》りかかって、ずっと以前に読みさしたまま忘れていた翻訳物の探偵小説を読んでいると、肩の処で突然に電話のベルが鳴った。
私は読みさしの小説の中の事件を頭の中で渦巻かせながら立ち上って、受話機を耳に当てると、今までに一度も聞いた事のない、水々しい魅力を持った若い女の声が響いて来たので、私は思わず、顔に蔽いかかった髪毛《かみのけ》を撫で上げた。本能的に全神経を耳に集中した。
「モシモシ……あなたは四千四百三番でいらっしゃいますか」
「そうです……あなたは……」
「……あの……児島はもう帰りましたでしょうか」
「……ハイ。主人は今しがた帰りました。失礼ですがあなたは……」
「あの……あなたは……失礼ですけど……愛太郎さんでいらっしゃいますか……」
「ハイ……児島愛太郎です……あなたは……」
「……オホホホホホホホホ……」
……受話機のかかる音がした。
私も受話機をかけたが、そのまま電話口のニッケル・カヴァーを見つめてボンヤリと突立っていた。私の電話に対する敏感さをスッカリ面喰らわされてしまったまま……。
……千万長者の叔父を呼び棄てにする若い女が一人居る……その女は私の名前を知っている……否、もっともっと詳しく私について知っているらしい口ぶりである。……そうして何がなしに一寸《ちょっと》冷やかして見ようぐらいの考えで、私を電話口に呼び出してみたものらしい……。
という感じだけが、私の脳髄の中心にキリキリと渦巻き残ったまま……。
私は小説の続きも何も忘れて、表の窓や扉《と》をヤケに手荒く締めると、暗い階子《はしご》段を二階に上って、蠅の糞《ふん》で真白になった電球の下に仰向けに寝ころんだ。
「ホホホホホホホホ」
という……冷笑とも、皮肉とも、媚《こ》びともつかぬ透きとおった笑い声を、いつまでもいつまでも耳の中で聞き味いつつ、室《へや》中が真白になるまでネーヴィカットの煙《けむ》を吹き出していた。
その翌る朝、いつもより早く起きた私は、まだ開店まで一時間以上もあると思い思い、寝巻のまま叔父の椅子に腰をかけて、投げ込まれた新聞を読んでいると、思いがけなく店の前に大きな自動車が停まって、白いダブダブの詰襟を着たパナマ帽の叔父が、一人の令嬢の手を引いてニコニコしながら這入《はい》って来た。
それは二階の美人画とは全然正反対の風付《ふうつ》きをした少女であったが、それでいてF市界隈は愚か、東京あたりにでも滅多に居ないシャンであろうことが、世間狭い私にも容易にうなずかれた。小男の叔父よりもすこし背が低くて、二重《ふたえ》まぶたの大きな眼が純然たる茶色で、眉が非常に細長くて、まん丸い顔の下に今一つ丸まっちい腮《あご》が重なっていた。縮らした前髪を眉の上で剪《き》り揃えたあとを左右に真二《まっぷた》つに分けて、白い襟首の上にグルグル捲きを作って、大きな、色のいい翡翠《ひすい》のピンで止めたアンバイは支那婦人ソックリの感じであった。小ぢんまりした身体《からだ》には贅沢なものらしい透かし入りの白い襦袢《じゅばん》と、ヴェールのように薄い、黒地の刺繍入りの着物を着込んで、その上から上品な銀色の帯と、血のように真赤な帯締めをキリキリと締めていたが、それが小さい白足袋《しろたび》に大きなスリッパを突っかけながら、叔父の蔭に寄り添ってオズオズと私の前に進んで来た時は、どう見ても大富豪の一人娘か何かで、十六か七ぐらいのろうたけた[#「ろうたけた」に傍点]令嬢としか見えなかった。
私は新聞を手に持って、椅子に腰をかけたまま、唖然としてその姿を見上げ見下した。敏感な私の神経はこの令嬢が昨日《きのう》、電話で私に笑いかけた声の主である事を、とっくの昔に直覚していたのであったが、しかも、そうした私の直覚と、眼の前にしおらしく[#「しおらしく」に傍点]伏し眼になって羞恥《はにか》んでいる美少女の姿とは、どう考えても一緒にならないのであった。もしかしたら私の直覚が、今度に限って間違っているのではなかろうか……なぞと一人で面喰っているうちに叔父は帽子を脱いで汗を拭き拭き、反《そ》り身《み》になって二人を紹介した。
「これは俺の拾い物だよ。お前の従妹《いとこ》で俺の姪《めい》なんだ。俺たちには、もう一人トヨ子という腹違いの妹があったんだが、俺達の両親も、お前の死んだ親父《おやじ》もそれを隠していたらしいんだ。そのトヨ子……つまりお前の叔母さんだね……それが生み残したのがこの友丸伊奈子《ともまるいなこ》という娘で、早くから母に別れていろいろと苦労をしたあげく、長崎の毛唐《けとう》の病院の看護婦をしていたんだが、俺の名前が時々新聞に出るようになったもんだから、もしやと思って、昨日わざわざ長崎から尋ねて来たんだ……いいか……これが昨日話した愛太郎だ。お前たちは、ほかに肉親《しんみ》の者が居ないからホントウの兄妹《きょうだい》みたようなもんだ。ハハハハハハ」
二人は叔父の笑い声の前で椅子から立ち上って「どうぞよろしく」と挨拶を交した。私は内心気味わるわると……彼女は上品に、つつましく……。
叔父はそれから如何にも得意そうに、脂肪でピカピカ光る顔を撫でまわしながら、伊奈子の母親に関するローマンスを話し始めた。それは……
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……伊奈子が七歳の時であった。K市の富豪友丸家の第二夫人で、まだ若くて美しかった彼女の母親は、伊奈子も誰も知らない正体不明の情夫から夫を毒殺された後《のち》に、自分自身もその男から受けた梅毒に脳を犯されて発狂してしまった。そうして色々な事を口走り始めたので、その罪の発覚を恐れたらしい情夫は、或る真暗い晩に病室に忍び込んで、枕元の西洋手拭で絞殺すると同時に、一緒に寝ていた伊奈子を誘拐して行った事がその頃の新聞に出ていた。あとの財産はどうなったか解らないが、多分親類たちが勝手に処分したものらしく、正体不明の犯人も、いまだに正体不明のままになっている……。
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というようなかなりモノスゴイ筋であった。叔父も一生懸命に力瘤《ちからこぶ》を入れて喋舌《しゃべ》っているようであったが、しかし、私はちっとも傾聴していなかった。それはシナリオや小説を飽きる程読んでいる私の耳には、頗《すこぶ》るまずい、取って付けたような話としか響かなかったので、強いて想像を逞しくすれば……その美しい第二夫人というのは、私の実の母親の事ではないか。そうして正体不明の情夫の正体は取りも直さず叔父自身ではないか。叔父はそうした旧悪に対する一種の自白心理を利用して私たちを誤魔化《ごまか》そうと試みているので、友丸伊奈子と私とはその実、タネ違いの兄妹《きょうだい》とも、従兄妹《いとこ》同志ともつかぬ異様な間柄になっているのではないか……と疑えば疑い得る筋がないでもない位の事であった。
しかしそのうちにフト気が付いて、叔父の斜うしろに坐っている伊奈子の様子を見ると、こうした私の忌《い》まわしい疑いも無用である事がわかった。彼女は如何にもつつましやかな態度で、さしむきながら聞いているにはいたが、しかし内心は飽き飽きしているらしく、叔父の話が自分達|母子《おやこ》と全く無関係である事を、特に私にだけコッソリと知らせたがっている気持ちが、その溜め息のし工合いや、白い絹ハンカチの弄《もてあそ》びようだけでもアリアリと察しられたので、私は何故かしらホッと安心させられたように思った。そうしてあとには大袈裟《おおげさ》な身ぶりを入れて喋舌っている叔父の、滑稽なくらい真剣な表情だけが印象に残ってしまった。
「……だから……おれは近いうちに、伊奈子と二人で家を借りて住むつもりだ。今までみたいに待合《まちあい》にばかり泊っていちゃ、伊奈子のためにならないからナ。ハハハハハ」
叔父はお終《しま》いに、こう云って笑いながら壁に掛けたパナマ帽子の方へ手を伸ばした。
すると……その瞬間に、流石《さすが》の私もハッとさせられた事が起った。それは今の今までつつましやかにうつむいていた伊奈子が大きな眼で上眼《うわめ》づかいに私を見て、頬をポッと染めながらニッコリと笑って見せたからであった。しかも、その眼つきや口元の表情が、ほんのチョットの間《ま》ではあったが、二階の美人画の表情以上に熱烈深刻な意味で、
「あたしは、あなたが大好きよ……」
と云ったように思えたので、私は思わず釣り込まれながらニッコリと微笑を返してしまったのであった。……が……しかし……そのあとで眼を閉じて、ゴックリと冷たい唾液《つば》を呑み込むと、その刹那《せつな》に彼女のすべてが電光のように私の頭の中へ閃めき込んだので、私は今一度ギョッとさせられない訳に行かなかった。
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……驚いた……驚いた……この女はウッカリすると俺よりも年上だ。のみならず処女でもなければ令嬢でもない……叔父の妾《めかけ》になりに来た女なのだ。……しかも、今まで読んだ小説の中にも滅多に出て来た事のないタイプの妖婦で、叔父から俺の事を聞くとすぐに、電話をかけて笑ってみたものらしい……チョット俺を面喰らわして、丸め込むキッカケを作っておこうぐらいの考えで……大変な阿魔《あま》ッチョだぞ。こいつは……。
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私はこう思いながら頭を上げた。昨日から持ち続けていた興味が見る見る醒めて行くのを感じつつ、改めて伊奈子を見たが、その時はもう彼女は鵜《う》の毛で突いた程もスキのない無垢の処女らしい態度にかわって、つつましやかに眼を伏せているのであった。
しかし何も知らない叔父は、如何にも二人の叔父らしい気取った身ぶりで、買い立てらしいパナマ帽を大切そうに頭に載せながら伊奈子を連れて出て行った。その自動車が店の前を辷《すべ》り出すのを見送りながら、私は思わず薄笑いをした。
……阿婆摺《あばず》れめ……来るならこい……。
と思って……。けれども伊奈子はそれっきり、私にチョッカイを出さなかった。
私は又、平和に二階で寝ころんだ。
それから後《のち》、伊奈子が叔父を操った手腕は実に眼ざましいものがあった。
伊奈子はまず叔父に家を買わせた。それも普通の家ではないので、F市外の公園の入口に在る檜御殿《ひのきごてん》と呼ばれた××教の教会堂が、先年の不敬事件に関する信者の大検挙以来、空屋《あきや》同然になっていたのを自分の名前で買い取らせて、見事な住宅の形に手を入れさせたもので、そこに素敵な自動車や、大勢の女中を雇い込んで女王のように奉仕させた。同時に叔父の待合入りをピッタリと差し止めたので、私はその当時、八方の待合からかかって来る電話を聞かされてウンザ
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