キまでも聞えることがあった。勿論それは複雑を極めた雑音の奥の奥から伝わる波動で、音響とは感じられない程度の感じであったが、そんな物音と、青木の店員が一息に吹き込む場況とを重ね合わせて聞きながら、上り下りの数字を鉛筆で書き止めて行くと、その瞬間瞬間に、そんな米や株の景気に対するいろんな予感が理窟なしにピンピンと私の頭に感じて来た。この株は上るな……と思うと持っている鉛筆に力が籠もった。下るな……と感ずると字の力が抜ける位にまで敏感になって来た。その予感を後《あと》から配達して来る夕刊の相場面と照し合わせて見ると一々的中しているので、面白くてしようがなかった。的中していないのはF市の新聞社の誤植である事を翌る日の正午に来る大阪の新聞で発見した事も珍らしくない。
けれども私はこうした予感を叔父に知らせた事はなかった。知らせても滅多に信じない事はわかり切っていたし、第一面倒臭くもあったので、ただ数字の控えだけを恭《うやうや》しく手渡しすると、叔父は一眼でツラリと見渡して私に返した。それを私は、電話の横にかかったボールドにチョークで書き直すのであったが、それを見ながら叔父は腹の中でいろんな奸策《かんさく》を立て直しつつ、お客の株を売ったり買ったりして、悪銭をカスッている事が私によくわかった。あんなに苦心して危険な銭《ぜに》を掴んで、火の車に油を指し指しして行くのがこの叔父の一生かと思うと、いつも薄笑いが腹の底から浮かみ上って来た。いっその事、死んだ親父の遺言通りに、この叔父の禿げた脳天をタタキ破ってやった方が功徳《くどく》になりはしまいか……なぞと考えた事もあった。
けれども店を仕舞《しま》うと同時に、私はそんな事をキレイに忘れて終《しま》うのが常であった。そうして鼻歌を唄い唄い二階に上って、煙草の烟《けむり》と、小説と雑誌と、キネマの筋書の世界に寝ころんだ。活動も時々見た。
私は十円に満足していた。
ところが、こうした私の電話に対する特別の能力が、とうとう外に顕われる時機が来た。
それは私が十七の年であったと思うから大正十年頃の事である。青木の店員が一気に読み上げる前場《ぜんば》の数字の中で、製糖関係の株が一斉に二分|乃至《ないし》五分方の暴落をしているのにビックリしながら鉛筆を走らせていると、どこから混線して来たものか、以前に声の調子を聞き覚えていた叔父の知人で、大阪随一の相場新聞|浪華《なにわ》朝報社の主筆をやっている猪股《いのまた》という男の言葉が切れ切れに響いて来た。
「……買え買え。きょうの後場《ごば》はもっと下るかも知れないが構わずに買え……外電のキューバ島の空前の大豊作は嘘だ……」
私はこの意味がちょっと解らなかった。ただ、この頃、製糖会社の株をシコタマ背負い込んでいる叔父がどんな顔をするだろうと思いながら、そんな株の暴落した数字を心持ち大きく書いて示すと、叔父はいつもの通りに一渡り見まわしながら、何喰わぬ顔をしてゴクリと唾を飲み込んだ。この調子で行くと叔父は殆んど破産に近い打撃を受けるであろう事が、その石みたいに冷え切った表情で察しられた。
けれどもその表情をジッと凝視しながら、机の端を平手で撫でていると、何故ともなく私の頭の中で或る暗示が電光のように閃《ひら》めいたので、私は思わず鉛筆を取り上げて叔父が眼を落している机の上の便箋にこう書いた。
「今朝《けさ》の各新聞に出ているキューバ糖の大豊作の予想は虚報だと思います。浪華朝報社では、キューバ糖が、何者かに依って大仕掛けに買い占められつつある事を探知しているようです。会社の相場主任猪股氏はきょうの後場で買いにまわっている事が、たった今電話の混線で……」
ここまで書いた時叔父は、私の手をピッタリと押えた。茫然と血の気《け》を失ったまま、素焼の瀬戸物みたいな表情で私の顔を見た。そうしてブルブルとふるえる手で、その便箋の一枚を掴んで空間を睨みつつ、腰を浮しかけたが、又、ドッカと椅子に腰を下して瞑目一番したと思うと、今度は猛虎のように決然として立ち上って、掴みかかるように私を押し除《の》けると自分自身に電話口へ獅噛《しが》みついた。各地の銀行や仲買店を次から次に汗だくだくで呼び出しつつ、資力の続く限り製糖株を買いにまわった。そうして店の者が呆《あき》れた眼を瞠《みは》っている中をフラフラと取引所へ出て行って、その日の後場でメチャメチャに暴落した製糖株を買って買って買いまくった。人々は叔父を発狂したと云っていたそうである。
けれども、それから中一日置いてあくる日の前場《ぜんば》の引け頃になると、取引所の中に一騒動が起った。叔父は寄ってたかって胴上げにされて、這《ほ》う這うの体《てい》で店の中に逃げ込んで来た。そのあとから「万歳万歳」という声が大波のように雪崩《なだ》れ込んで、店の中から表の往来まで一パイの人になった。私は私でそのさなかに電話口に突立って、八方からかかって来る吉報に転手児舞《てんてこまい》をしなければならなかった。
「……米国某新聞系大手筋のキューバ糖大買占め……紐育《ニューヨーク》の砂糖が一躍暴騰して、砂糖節約デーの実施運動起る……」
という国際電報が掲載されたのは、その翌日の夕刊のことであった。
叔父は一躍して相場師仲間の大立物になった。出入りするお客の数《すう》は三倍位になった。田舎の出米《でまい》の相場を直接に聞くようになったために電話の忙がしさは数倍に達した。けれども叔父は電話機も殖《ふ》やさなければ店も拡張しなかった。ただ私の手当てを一躍五十円に引き上げたほかに、私がトックの昔に忘れていた、親孝行に対する新聞社の同情金を叔父が保管していたものが、元利合計二百何円何十何銭かになっていたので、プラチナの腕時計を一個買って下げ渡してくれただけであった。
しかし叔父はそれから後《のち》、私に電話以外の用事を絶対に云いつけなくなった。新しい通勤の給仕を一人置いて今までの私の雑務を引き継がせると同時に、各地方の相場を聞く私の態度にすこしも眼を離さぬようになった。電話を伝わって来る相場に限って私が持っている……それこそ悪魔のような敏感さを、叔父がズンズン理解し始めている事が、私に又ズンズン感じられた。
「きょうはトテモ線がわるいんです。広島か岡山あたりで大雪が降って断線しそうになっているんです。きょうの後場《ごば》の大阪電話はこの調子だと来ないかも知れません」
と云っても叔父は以前のように「千里眼だ」なぞ云って冷笑しなくなった。
「オーイ、大新が落ちているぞ――オ。大新はいくらだア」
と私が大阪に怒鳴る時、叔父もその日の株界の興味の中心が、その株の上り下りに在る事を知って、熱心に注目している視線が、私の横頬に生あたたかく感じられる位にまで、二人の気持ちがピッタリとなって来た。
私は相場の書き取りを叔父に見せる時に、叔父が指で押える株の上り下りを眼顔で知らせた。上り下りの見当が附かないのはチョット頭を振った。又、客から売り買いの相談をかけられた時に、チラリと私の方を見ると、私は左右の眼を閉じたり開いたりして合図をした。その合図を叔父が取り違えると頭を掻いて訂正した。
こうした相場の上り下りに対する私の予感は夏冬の寒暖の変化や天候の工合なぞによって、余計に来る時と来ない時があった。電線の調子の良《よ》し悪《あ》しや、先方の読み方の上手下手に依っても違ったが、それでもこの予感のおかげで叔父の身代はメキメキと殖えて行った。何でも二三年の間に一千万円近くに達したとの事だが、叔父はそれを全部、大阪中の島の浜村銀行に預けているらしかった……というのは或る時、同銀行の支配人で井田という大阪弁丸出しの巨漢《おおおとこ》がこの事務所を訪れて、事務員や私にまでピョコピョコ頭を下げまわったのに対して、赤ん坊位にしか見えない叔父が反《そ》り身になりながら、こんな事を云ったので察しられる。
「僕は何でも相場式に行かなくちゃ気が済まない性分でね。儲けた金は方々の銀行にチョクチョク入れて、頭かくして尻かくさず式の安全第一を計《はか》るようなケチな真似はしないよ。大阪一流の浜村銀行が潰れた時に、日本中で店を閉めたのはこの薄キタナイ※[#「ユ−一」、屋号を示す記号、、285−18]善《かねぜん》の事務所一軒だけという事がわかれば、相場師としてこれ以上の名誉はないじゃないか。ハッハッハッハッハッ」
この財産と共に、叔父の肉体も亦、いよいよ丸々と脂切《あぶらぎ》って、陽気な色彩を放って来た。その頭はますます禿げ上った。叔父はそれを撫で上げ撫で上げ人と話した。
私はそれと正反対に益々青白く瘠せこけて行った。そうして黒い髪毛《かみのけ》ばかりが房々と波打って幽霊のように延びて行ったが、それを両手で掴んだり引っぱったりして、何ともいえない微妙な手ざわりを楽しみつつ、金口《きんぐち》の煙草を吸って、小説や雑誌を読むのが私の無上の楽しみであった。私にとっては恋なぞいうものは、空想の世界の出来事に過ぎなかった。又は、錯覚と誇張とで性慾を飾ろうとする一種の芝居としか考えられなかった。私の初恋とも云えば云えるであろう彼《か》の、大東汽船の美人画に向って微笑し合っているうちに、時折り思い出したように感ずる胸のトキメキ以外には、本当の恋が存在しようなぞと夢にも思わなかった。私は純然たるなまけもの[#「なまけもの」に傍点]になった。
一方に私の俸給はグングンとセリ上って、とうとう二百五十円まで漕ぎ付けた。叔父はそれを私独得の「相場の予感に対する口止め料」であるかのように云い聞かせていたが、実は、私という福の神[#「私という福の神」に傍点]に投げ与える極めて安価な足止め料に相違なかった。もっともそのおかげで、私は汚ない二階に寝ころんだまま、煙草と、弁当と、書物の三道楽に浮き身をやつし得るありがたい身分になったわけであるが、同時にその道楽の結果として、自分の頭と、胃袋と、肉体とが日に日に頽廃して行く有様《ありさま》を自分でジッと凝視《みつ》めていなければならなくなったのには少々悲観させられた。煙草はマドロスパイプを使う舶来の鑵入りでなければ吸えないようになった。弁当は香料の利《き》いた、脂《あぶら》濃い洋食か支那料理に限られて来た。小説もアクドイ翻訳ものか好色本のたぐいでなければ手にしなくなった。しまいにはそれさえも飽きて来て、神経の切れ端《はじ》を並べたような新体詩や、近代画ばかり買うようになった。それでも余った札束や銀貨の棒は、片っ端から押入れの隅にある本筥《ほんばこ》の抽出しに投げ込んだ。
しかし遂にはそんな書物を買いに行く事すら面倒臭くなった。苦辛《にがから》い胃散の味を荒れた舌に沁み込ませながら、破れ畳の上に寝ころんで、そこいらの壁や襖の楽書きの文句や絵に含まれている異様に露骨な熱情や、拙劣な技巧によって痛切に表現されている心的の波動を、宇宙間無上の芸術ででもあるかのように飽かず飽かず眺めまわしつつ、あらん限りの空想や妄想を逞しくする時間が殖えて来た。私は自分の肉体と精神の弾力が、日に日にダラケて消え失せて行くのを感じた。しまいには壁の美人画の永久に若い、生き生きした微笑から、一種の圧迫を感ずるくらいにまで神経が弱って行った。……私は近いうちに死ぬかも知れない。病気にかかるか、それともキチガイになるか、自殺するかして……というような薄暗い予感に襲われ初めたのはこの頃からの事であった。叔父はこうして私を衰滅させるためにヤケに給料を殖やしているのではないか知らん。もしそうならば構う事はない。死にがけに叔父の頭を鉄鎚でなぐってお礼を云ってやろう……なぞと真面目に考えたりした。
そのうちに叔父は満五十歳になった。私は二十歳になった。
叔父が独身者である事を、私が初めて知ったのはこの頃の事であった。
二十歳になるまで七八年間も一緒に居た叔父が、独身者かどうか気付かなかったといったら笑う人があるかも知れない。しかしこれは私の正真正銘のところであった。私はそれほど左
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