なかった。それよりも叔父に買ってもらった古い洋服と、帽子と靴が、もの珍らしくて嬉しい位の事であった。
 叔父の店は、今までいた貧民窟から半里ばかり距《へだた》ったF市の中央《まんなか》の株式取引所の前にあった。両隣りとソックリの貸事務所になっている北向きの二間半|間口《まぐち》で、表に「H株式取引所員……※[#「ユ−一」、屋号を示す記号、273−2]善《かねぜん》……児島良平……電話四四〇三番」と彫り込んだ緑青《ろくしょう》だらけの真鍮看板を掛けて、入口の硝子扉《ガラスど》にも同じ文句を剥《は》げチョロケた金箔で貼り出していた。私は叔父がこんな近い処に住んでいようとは夢にも思わなかったので、子供心に不思議に思いながら叔父に跟《つ》いて中に這入ると、上り口は半坪ばかりのタタキで、あと十畳ばかりの板の間に穴だらけのリノリウムを敷いて、天井には煤《すす》ぼけた雲母紙《うんもし》が貼ってあった。その往来に向った窓の処に叔父の机と廻転椅子。その右手の壁に株の相場を書いたボールド。その又右手に電話機。その反対側の向い合った白壁には各地の米の相場を見せる黒板。汽車の時間表。メクリ暦《ごよみ》なぞ……
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