で、大阪随一の相場新聞|浪華《なにわ》朝報社の主筆をやっている猪股《いのまた》という男の言葉が切れ切れに響いて来た。
「……買え買え。きょうの後場《ごば》はもっと下るかも知れないが構わずに買え……外電のキューバ島の空前の大豊作は嘘だ……」
私はこの意味がちょっと解らなかった。ただ、この頃、製糖会社の株をシコタマ背負い込んでいる叔父がどんな顔をするだろうと思いながら、そんな株の暴落した数字を心持ち大きく書いて示すと、叔父はいつもの通りに一渡り見まわしながら、何喰わぬ顔をしてゴクリと唾を飲み込んだ。この調子で行くと叔父は殆んど破産に近い打撃を受けるであろう事が、その石みたいに冷え切った表情で察しられた。
けれどもその表情をジッと凝視しながら、机の端を平手で撫でていると、何故ともなく私の頭の中で或る暗示が電光のように閃《ひら》めいたので、私は思わず鉛筆を取り上げて叔父が眼を落している机の上の便箋にこう書いた。
「今朝《けさ》の各新聞に出ているキューバ糖の大豊作の予想は虚報だと思います。浪華朝報社では、キューバ糖が、何者かに依って大仕掛けに買い占められつつある事を探知しているようです。会社の相場主任猪股氏はきょうの後場で買いにまわっている事が、たった今電話の混線で……」
ここまで書いた時叔父は、私の手をピッタリと押えた。茫然と血の気《け》を失ったまま、素焼の瀬戸物みたいな表情で私の顔を見た。そうしてブルブルとふるえる手で、その便箋の一枚を掴んで空間を睨みつつ、腰を浮しかけたが、又、ドッカと椅子に腰を下して瞑目一番したと思うと、今度は猛虎のように決然として立ち上って、掴みかかるように私を押し除《の》けると自分自身に電話口へ獅噛《しが》みついた。各地の銀行や仲買店を次から次に汗だくだくで呼び出しつつ、資力の続く限り製糖株を買いにまわった。そうして店の者が呆《あき》れた眼を瞠《みは》っている中をフラフラと取引所へ出て行って、その日の後場でメチャメチャに暴落した製糖株を買って買って買いまくった。人々は叔父を発狂したと云っていたそうである。
けれども、それから中一日置いてあくる日の前場《ぜんば》の引け頃になると、取引所の中に一騒動が起った。叔父は寄ってたかって胴上げにされて、這《ほ》う這うの体《てい》で店の中に逃げ込んで来た。そのあとから「万歳万歳」という声が大波のように雪崩
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