……貴女は名探偵です……」
呉羽も調子を合わせるようにヒッソリとうなずいた。大きな眼をパチパチさせた。
「……ですから……貴方にお願いするのです。今から笠支配人の様子を探って下さい。そうしてイヨイヨ生蕃小僧の本人に違いないという事がわかったら……」
「……コ……殺してしまいます」
江馬兆策の両眼が義眼《いれめ》のように物凄くギラギラと光った。
「イケマセン」
呉羽は真剣に手を振った。
「……ナ……ナゼ……何故ですか」
「復讐の手段は妾に任せて下さい。両親の仇《かたき》……轟の仇です……」
「……………」
「それでね貴方にその脅迫状の束を全部《みんな》さし上げます。それをイヨイヨとなったら笠に突付けて云って御覧なさい。お前はお前の書いた文句を忘れてやしまい。呉羽さんを脅迫した言葉も忘れてやしないだろうって……ね……」
「……………」
「それからね。貴方の活躍の期限を来月の十日までに切っておきます。来月の十日になっても笠に泥を吐かせる事が出来なかったら一先ず帰っていらっしゃい。よござんすか。費用は脅迫状の束と一緒に、明日《あす》の午後に差上げます」
「イヤ。費用なんか一文も要りません」
「いいえ。いけません。他人の間は他人のようにしとくもんです」
「エッ……他人……」
「ええ。そう。今じゃ全くの赤の他人でしょう。ですからそのつもりでいらっしゃい。それからの御相談は、何もかも来月の十日|過《すぎ》にお願いしますわ」
ハッと感激に打たれた江馬は深海魚のように眼を丸くして呉羽の顔を凝視した。口をアングリと開けて棒立ちになっていたが、やがてクシャクシャ頭をガックリとうなだれると、涙をポトポトと落しながら口籠もった。
「かしこ……まりました」
そうして、なおも感激に堪え切れないらしく、兵隊のようにクルリと身を飜すと、非常な勢いでホールを出て行った。百雷の落ちるような凄じい音を立てて階段を駈け降りて行った。
「……ホホ……確証を掴んだシャロック・ホルムズ……義憤に駈られたアルセーヌ・ルパン、ホホホホホハハハハハ……」
星だらけの空を真黒く区切った樫の木立の中に燈火《ともしび》を消した轟家は人が居るか居ないか、わからない位ヒッソリとしている。表門に貼付けた「不幸中に付家人一切面会謝絶」と書いた白紙が在るか無いかの風にヒラヒラと動いているきりである。
これに反してお庭の隅の常春藤《きづた》に蔽われたバンガロー風の小舎には燈火《ともしび》がアカアカと灯《とも》って、しきりに人影が動いている。
非常な勢いで帰って来た江馬兆策が、妹の出したお茶も飲まない無言のまま、ガタンピシンと戸棚を引開けて、あらん限りの服、帽子、靴、ズボン吊、トランクを引ずり出して旅支度を初めたのを、妹の美鳥《みどり》がしきりに心配して止めているのであった。
「まあ……お兄様ったら……気でもお違いになったの……」
「感謝《コオマプソ》感謝《コオマプソ》。心配しなくたっていいんだ。気も何も違ってやしない」
「だってイツモのお兄様と眼の色が違うんですもの……まるで確証を握ったシャロック・ホルムズか義憤に猛り立つアルセエヌ・ルパンみたいよ。ホホホ。どうなすったの……一体」
「黙って見てろったら。非常な重大事件だから……お前が関係しちゃイケナイ問題なんだから絶対に局外中立の態度で、黙って見てなくちゃイケナイ重大事件なんだからね」
「わかっててよ。それ位の事……轟さんのお家《うち》の事でしょう」
「そうなんだよ。ホントの犯人がわかりそうなんだよ。そいつを僕が突止める役廻りになったんだよ」
「だからウイスキー曹達《ソーダ》を、お引っくり返しになったの……」
「ゲッ……お前見てたのかい」
「ホホホホ。ビックリなすったでしょ」
兆策は自然木の椅子にドッカと尻餅を突いた。気抜けしたように溜息をして取散らした室内を見まわすと、醜い顔に不釣合な大きな眼をパチパチさせた。
「……ど……どうして聞いたんだい。タッタ今帰って来たばかりなのに……」
美鳥は淋しく笑いながら向い合った椅子に腰を降ろした。
「何でもないことよ。妾だって今度の轟さんの事件ではずいぶん頭を使っているんですもの。ホントの犯人が誰だか色々考えているうちに、万一貴方が疑われるような事になったらドウしようと思って一生懸命に考えまわしていたのよ」
「フーン。どうして二人に嫌疑がかかるんだい」
「お兄さん御存じないの。昨夜《ゆんべ》十二時頃、轟さんと呉羽さんとが、支配人の眼の前で大喧嘩をなすった事を……」
「知らなかったよ。俺はその頃お前と二人で、ここで茶を飲んでいたんだから」
「ええ。そうよ。ですから妾も知らなかったんですけどね。小間使のイチ子さんが今朝《けさ》になって、その事をおヨネさんに話したんですって……そうしたらおヨネさんがビックリしちゃってね。その喧嘩の話は決して喋舌《しゃべ》っちゃイケナイって云ってねあの女《ひと》、自分がオセッカイのお喋舌《しゃべり》のもんですから、イチ子さんにシッカリと口止めをしといてから、わざわざやって来てソッと私に知らしてくれたのよ。こちらでも気《け》ぶりにも出さないようにして下さいってね。おかアしな女《ひと》よ。おヨネさんたら……ホホホ。あたし最初、何の事だかわかんなかったわ」
「ああ。その話かい。今朝《けさ》、台所で暫くボソボソやっていたのは……一体何の喧嘩だい。轟さんと呉羽さんと言い争った原因というのは……」
「妾たち二人を追い出すとか出さないとかいう話よ」
「ナニ……俺たちを追い出す……?……」
「ええ。そうなんですって。何故だかわかんないんですけど」
「……ケ……怪《け》しからん。俺は今まであの轟をずいぶん助けてやっているのに……」
「……そんな事云ったって駄目よ。御恩比べなんかすると馬鹿になってよ」
「馬鹿は最初から承知しているんだ。向うはホンの些《ちっ》とばかりの金を出してくれただけだ。それに対してこちらは、お金で買えない天才を提供しているじゃないか。しかも有らん限りの生命《いのち》がけで……」
「お兄さん馬鹿ね。そんな事云ったって誰も相手にしやしませんよ」
「一体ドッチが俺たちを追い出すと云うんだ」
「轟さんが追い出すって云うのを呉羽さんが、理由なしにソンナ事をしてはいけないってね。泣いて止めていらっしたそうよ」
「当り前だあ」
「当り前だかドウだか知りませんけどね。もしソンナ話があったのを妾たちが聞いたって事が警察にわかったら大変じゃないの。お兄さんの極端に激昂し易い性格は、みんな知っている事だし、あの家《うち》の案内は残らず御存じだし……万一、疑いがかかったら大変と思ってね妾ずいぶん心配したのよ」
「馬鹿な……俺はソンナ馬鹿じゃない」
「だって今みたいに昂奮なさるじゃないの……話がわかりもしない中《うち》に……」
「……ウウン……それあ……そうだけど……」
「……ね……ですから妾は直ぐにアリバイの説明の仕方や何かについて考えたわ。……ずいぶん苦心したことよ」
「そんな事は苦労する迄もないじゃないか。昨夜《ゆうべ》はチャントここに寝てたんだから……」
「まあ。そんなアリバイが成立する位なら苦心しやしないわ。お兄さんたら探偵作家に似合わない単純な事を仰言るのね。でもその寝ていらっしゃるところを誰か他所《よそ》の人が夜通し寝ないで見ていなくちゃ駄目じゃありませんか。妹の妾が証明したんじゃ証明にならないんですからね。それ位の事は御存じでしょう。貴方だって……」
「ウム。そんならドンナアリバイを考えたんだい」
「それがなかなか考えられないのよ。ですからね。今夜、貴方がお帰りになったら、よく相談しましょうと思って待っていたら、イツモの十一時になってもお帰りにならないでしょ。劇場《こや》の方へ電話をかけてみたら、もうお芝居はトックにハネちゃって、呉羽さんと二人でお帰りになったって云うでしょう。ですからテッキリあのアルプスに違いないと思って電話をかけたらテッキリなんでしょう。ですからその電話に出たボーイさんに頼んであすこの受話機を……ちょうど貴方の背後《うしろ》に在る木の空洞《うつろ》の中の卓上電話を外しっ放しにして受話機を貴方の方に向けておいてもらったのよ。ですから貴方と呉羽さんのお話が何もかも筒抜けに聞えたのよ。あの家《うち》はいつもシーンとしているんですからね」
「エライッ。名探偵ッ……握手して下さいッ」
「馬鹿ね。お兄さま……あの女《ひと》の云う事、信用していらっしゃるの……」
「あの女《ひと》って誰だい」
「誰って彼女《あのひと》以外に誰も居なかったじゃないの……」
「呉羽さんが僕と結婚してもいいって話かい」
「ええ。あれは絶対に信用なすっちゃ駄目よ」
「エッ……どうして……」
「どうしてったって呉羽さんは、お兄さんと結婚してもいいって事をハッキリ仰言りやしなかったわ」
「……………」
兆策は額を押えて椅子に沈み込んだ。
「フ――ム。そうかなあ……」
「そうよ。彼女《あのひと》の話は陰影がトテモ深いんですから、用心して聞かなくちゃ駄目よ。たといソンナ事をハッキリ仰言ったにしても、それあ嘘よ……キット……」
「どうしてわかるんだい。そんな事が……お前に……」
「女の直感[#底本では「直観」と誤記]よ。……第三者の眼よ……」
「それだけかい……」
「それだけでも十分じゃないの。あたし……あの呉羽って女《ひと》……キット深刻な変態心理の持主だと思うわ」
「直感でかい」
「いいえ。色んな事からそう思えるのよ。第一あの女《ひと》は貴方がホントに好きなんじゃない。妾が好きなのよ……それも死ぬほど……」
「ナ何だって……真実《ほんと》かいそれあ……」
兆策は飛上らんばかりにして坐り直した。
「シッ。大きな声を出しちゃ嫌よ。外に聞こえるから……ホントなのよ。間違いないのよ。あの女《ひと》は、妾と近しくなりたいために、お兄さんと心安くしていらっしゃるのよ。あの女《ひと》がお兄さんを見送っている眼と唇に気をつけていると、トテモ他所他所《よそよそ》しい冷めたさを含んでいるのよ。お兄さまを冷笑しているとしか思えない事さえあるわ。あたし何度も何度も見たわ」
兆策は血の気《け》の失せかけた頬と額を、新しいハンカチでゴシゴシと力強く拭いた。
「フーム。それじゃ、お前を好いている事は、どうしてわかったんだい」
「あたし、お兄さんの前ですけどね。あの女《ひと》がこの頃、怖くて仕様がないのよ。……あの女《ひと》はね。妾を好いていると云った位じゃ足りないで、心の底から崇拝しているらしいのよ。トテモおかしいのよ。妾がズット前にあの女《ひと》の部屋に忘れて行った黄色いハンカチを大切に仕舞《しま》っておいて、何度も何度も接吻してんのよ。妾が偶然に行き合わせた時に、周章《あわ》てて隠しちゃったんですけど、そのハンカチにあの人の口紅のアトが残ってベタベタ附いているのが見えたわ」
「ウフッ。気色の悪《わ》りい……ホントかいそれあ」
「お兄さんに嘘を吐《つ》いたって仕様がないじゃないの。いつでもあの女《ひと》の妾を見ている眼の視線は、妾の横頬にジリジリと焦げ付くくらい深刻なのよ」
「ヘエッ。驚いたね。それじゃ……つまり同性愛だね」
「そんなものらしいのよ。持って生まれた性格を舞台の上でイタメ附けられている荒《すさ》んだ性格の人に多いんですってね。呉羽さんなんか尚更《なおさら》それが烈しいのでしょう。ですから妾……お兄さんの事さえなけあこの家《うち》を逃出そうと思った事が何度も何度もあるくらい気味が悪かったんですけどね……ロッキー・レコード会社から専属になってはドウかってね、或る親切な人から何度も何度も云って来ているんですけど、断っちゃってジイッと我慢し通してんのよ」
「馬鹿……何だって断るんだ。そんな美味《うま》い口を……」
「だって妾が二百円取ってお兄様を養うよりも、妾がお兄さまの百円の御厄介になっている方が嬉しいんですもの……」
「うむ。そうかッ……感謝するよ……」
兆策はモウ眼を真赤にしていた。
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