「でも……トテモ息苦しいのよ。だって同性愛なんて日本にだけしかない事でしょう。朝鮮《おくに》ではソンナ話、聞いたこともないんですから、ドウしたらいいのかわかんないんですもの。呉羽さんと同じ位に妾が呉羽さんを好きにならない限り、どうする事も出来ないじゃないの。女蛇に魅入られたようなタマラナイ気持になるだけよ。それがトテモ底強い魅力を持って迫って来るんですから尚更《なおさら》、息苦しくなって来るのよ」
「手紙も何も来ないのかい呉羽さんから……」
「イイエ。そんなもの一度も来たことないわ。妾が現実にそう感じているだけなの」
「フ――ム。そうすると……どうなるんだい……ボ……僕は……」
「アラ泣いていらっしゃるの……お兄様は……」
「泣いてやしないよ。怖いんだよ。僕は……」
「チットモ怖いことないわ。お兄様はただあの女《ひと》に欺されていらっしゃればいいのだわ。あの女《ひと》は、まだ轟さんを殺した犯人について疑っていらっしゃるのでしょう……ね……そうでしょう。ですから貴方に頼んで探してもらおうと思っていらっしゃるんですから、その通りにしてお上げになったらいいでしょう」
「何だか訳がわからなくなっちゃった。つまり僕はあの女《ひと》の云うなりになっていればいいんだね」
「ええ。そうよ。こっちがあの女《ひと》を疑っているソブリなんかチットも見せないようにしてね。そうしていらっしゃる中《うち》にはヒョットしたらあの女《ひと》だって、お兄様をお好きにならないとも限らないわ」
「タヨリないなあ。お前の云う事は……モット確《しっか》りした事を云っとくれよ」
「だって将来《さき》の事なんかわかんないんですもの……貴方みたいに正直に、何もかも真《ま》に受けて、青くなったり、赤くなったり……」
「オイオイオイ。電話で顔色がわかるかい」
「アラッ。バレちゃったのね。トリックが……」
「トリック。何だいトリックって……」
「ホホホ。何でもないのよ。あたし今夜あなたのアトから直ぐに家《うち》を閉めて出かけたのよ。だってコンナ時にはトテモたった一人でお留守番なんか出来ないんですもの。家《うち》の中には貴方の原稿以外に貴重品なんか一つも無いでしょう。……それからね。序《ついで》に途中で寄道をしてロッキー・レコードへ寄って契約して来ちゃったわ。一個月二百円で……」
「ゲエッ。ほんとかい……それあ……」
「ええ。だって轟さんが死んじゃったら妾たちだって相当の覚悟をしなくちゃならないんでしょう。契約書見せましょうか……ホラ……」
「ウウムム。ビックリさせるじゃないかヤタラに……」
「世話してくれた人トテモ喜んでたわ。妾の声は西洋人がヤタラに賞めるんですってさあ。この間テストした時に……ですからモウ誰の世話にならなくとも大丈夫よ。轟さんから受けた御恩を呉羽さんにお返しするだけよ」
「お前はたしかに俺より偉いよ。今夜という今夜こそ完全にまいった」
「ホホホ。まだエライとこ在るのよ」
「ナナ何だい一体……」
「当てて御覧なさい」
「わからないね」
「さっきの電話の話ウソよ」
「ヘエッ。何だって……」
「アラッ。まだわかっていらっしゃらないのね」
「だって、まだ何も聞きやしないじゃないか、トリックの事……」
「自烈度《じれった》いお兄さんたらないわ。あのね……あたし今夜貰った契約の前金で変装して今夜のお芝居見に行ったのよ。そうして貴方と呉羽さんのアトを跟《つ》けてアルプスへ行って、お二人の話を横からスッカリ聞いてたの……鳥打帽を冠って色眼鏡をかけて、レインコートの襟を立てて煤《すす》けたラムプの下にいたから、わからなかった筈よ。あすこのマダムはやっぱり朝鮮《おくに》の人で、ズット前から心安いのよ。ロッキー・レコードの支配人の第二号なんですからね。今度の話もあのマダムが世話してくれたのよ」
「驚いた……驚いた……驚いた……」
「まだビックリなさる事があってよ。あの笠っていうお爺さんね」
「可哀そうに、お爺さんは非道《ひど》いよ」
「あの笠圭之介って人を貴方はホントの犯人と思っていらっしゃる?」
「さあ。わからないね。当ってみない事には……」
「そう。それじゃ当って御覧なさい。あの人ならお兄様に対して無暗《むやみ》な事はしない筈ですから……」
「何だいまるで千里眼みたような事を云うじゃないかお前は……事件の真相を残らず知ってるみたいじゃないかお前は……」
「ええ。知ってるかも知れないわ……でも、それは今云ったら大変な事になって、何もかもわからなくなるから、云わない方がいいと思うわ」
「ふうむ。そんなに云うなら強《し》いて尋ねもしないが、しかしそのわかったって云うのは、犯人に関係した事かい……それとも事件全体に……」
「ええ。そう事件全体の一番ドン底に隠されている最後の秘密よ。トテモ神秘的な……そうして芸術的にも深刻な秘密よ。それさえハッキリとわかれば妾は自分の一生涯を棄てても、その秘密の犠牲になって上げていいわ」
「オイオイ。物騒な事を云うなよ……オヤッ。美《み》いちゃん……泣いているのか」
「……だって……アンマリ可哀そうなんですもの……その秘密の神秘さと、芸術的な深さの前には妾の一生なんか太陽の前の星みたいなんですもの……」
「いよいよ以《もっ》て謎だね」
「ええ。どうせ謎よ。この世の中で一番醜い一番美しい謎よ。それさえ解れば今度の事件の真相が一ペンにわかるわ」
「いよいよわからないね。何だか知らないけど、わからない方がよさそうな気がする」
「ええ。妾もよ。わかったら大変よ」
「いったいいつからソンナ事を感付いたんだい」
「ヤット今夜感付いたのよ。あの女《ひと》と貴方のお話を聞いているうちに……」
「……ど……どんな事だい。それは……」
 兆策が突然に立上った勢がアンマリ凄まじかったので、妹の美鳥も思わず立上ってしまった。そうして少し涙ぐんだまま頬を真赤に染めた。
「あの女《ひと》がね……貴方と向い合って話している横顔を、暗いところからコンパクトの鏡に写してジイッと見ている中《うち》に、妾、胸がドキドキ[#底本では「ドキドキドキ」と誤記]して来たのよ……鏡ってものは魔者ね……やっぱり……」
 兄妹は見る見る青ざめて行く顔を見合わせた。
「ふうん。どうして胸がドキドキしたんだい」
 美鳥はいよいよ涙ぐんだようになって、うつむいた。紅茶を入れかけたままの白いエプロンの端を弄《もてあそ》び弄び耳まで赤くなってしまった。口籠もり口籠もり云った。
「呉羽さんはアンマリ……アンマリ美し過ぎると思ったの……」

 あくる日も引続いた上天気であった。
 夜が明けると、思い切って早起して、いつもの通りに凝《こ》った和装の身支度を済ました女優呉羽嬢は、直ぐに轟家の顧問弁護士、桜間法学士を呼付けた。既に自分の名前になっている自宅の建築と地面を抵当に入れて堀端銀行から一万八千円の金を引出し、その中《うち》から三千円を分けて江馬|兄妹《きょうだい》を呼出し、桜間弁護士立会の上で手渡ししてキチンとした受取を入れさせた。それから弁護士を除いた三人で桐ヶ谷の火葬場にタクシーを乗付け、轟九蔵氏の遺骨を受取って来て故人の自室に安置し、附近の寺から僧侶を招いて読経してもらった。
 焼香の時に一番先に仏前に立った呉羽は、長い事手を合わせて、何か口の中でブツブツと祈りながら肩を震わして泣いていたが、その態度がアンマリ真剣だったので江馬|兄妹《きょうだい》は勿論、女中のおヨネまでも眼を潤ませていた。ところが故意か偶然かわからないけれども、そのおしまいがけになって呉羽の祈っている呟やき声に、何とも云えない気味の悪い底力が這入って来て、シンとした西洋|室《ま》の中にハッキリと沁《し》み透り初めたので皆真青になって顔を見合わせた。
「……何もかも……貴方も……わたくしも……二十年前から間違って来ておりました……わたくしは、それを自分の手で公表さして頂きとう御座います……正しい姿に改めさせて頂きとう御座います……すべての間違った恩も怨みも……一掃さして頂きとう御座います……どうぞ成仏なすって下さい……南無阿弥陀仏……」
 それから彼女は、まだ僧侶達が帰らない中《うち》に呼びつけのタキシーの高級車を呼んで、弦《つる》を離れた矢のように飛出て行った。一直線に帝国ホテルに乗付けて、東洋一の興行師と呼ばれているトキワ興行社長の段原《だんばら》万平氏に面会し、呉服橋劇場をタッタ五万円で来る九月十日限り売渡す約束をしてしまった。
 それから呉羽は又一直線に自宅に引返して桜間弁護士を自分の寝室に呼寄せ、留守の事や契約の事なぞを色々と細かに頼んで後《のち》、呉服橋劇場専属の俳優二十七名の中《うち》から選出《よりだ》した男女優僅に十余名を眼立たぬように変装させて、コッソリと上野駅を出発し、どこへか姿を消してしまったという事が、轟氏殺害犯人の逮捕に引続いて各新聞に報道され、満都の好奇心を聳動《しょうどう》した。しかし、それもホンノちょっとの間の事で、世間の人はいつの間にかそんな事を忘れるともなく忘れていた。
 とはいえ呉服橋劇場の探偵劇と異妖劇の味を心から愛好していた一部の尖端都会人は、事実、火の消えたような淋しさを感じていたらしい。折ふし場末の活動館にかかった面白くも何ともない独逸《ドイツ》の怪奇映画「笑う心臓」というのが連日、割れるような大入りを占めたのを見ても、そうした怪奇モノに飢えている都会人の心裡がアリアリと裏書きされていた。実際、敏感な文壇の人々や劇評家、芸術家の中《うち》には「呉服橋劇場を救え」とか「邪妖劇と都会人」とか「怪奇劇と女優」とかいったような「クレハ嬢礼讃」を中心とする文章を来月号の雑誌に投稿すべく、熱心に執筆していた人々も、実際に居たのであった。ところが、こうした一種の純真な意味の都会人の憂鬱は、それから間もない一箇月目に物の美事に粉砕されてしまった。東京市中でも有力な十大新聞の九月四日の朝刊の全面広告を見た人々は皆アッと驚かされたのであった。
 その全面広告の中央には五寸四方ぐらいの呉羽嬢の丸髷姿の写真が、薄い小さな唇の片隅から白い歯をすこしばかり洩らした、妖美な笑いを凝固させており、その周囲に一寸角から初号、一号活字ぐらいの赤や黒の大活字が重なり合って踊りまわっていた。「呉服橋劇場蘇える」「新劇場主[#底本では「王」と誤記]天川クレハ嬢主演」「邪妖探偵劇――二重心臓」「原作エドガア・アラン・ポーの秘稿」「最近仏国|巴里《パリー》市場に於て二百万|法《フラン》を以てグラン・ギニョール座専属パオロ・オデロイン夫人の手に落札せられしもの」「斯界第一人者江馬兆策先生翻案脚色」「凄絶、怪絶、奇絶、快絶、妖美無上」「九月七日午後五時開場六時開演」「特等(指定)十円」「普通五円、三円、前売せず」等々々……それから中一日置いて六日と七日の朝刊には又、奇妙な事に、都下著名新聞の「轟氏殺害事件」に関する記事を一々抄録して掲載し、その最下段に四号活字で次のような説明を付けていた。
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「諸君はこの劇を見る前に想起して頂きたい。今日から約一箇月前の八月三日の夜、前当劇場主を殺害した不思議な犯人のことを……。その当時、敏捷なその筋の手配により、事件後数時間を出でずして捕まった犯人生蕃小僧こと、本名石栗虎太は、まだ轟氏殺害の理由について一言も供述せず、従って一切はまだ巨大な疑問符の蔭に蔽い隠されている現情であるが、偶然にも当日興行される大天才ポー原作の『二重心臓』に用いられている物凄いトリックは、創作後百年を経過した今日に於て、この満天下を震駭した犯行の大疑問符を、遺憾なく抹消するに足る意外千万な鍵を指示している事を筆者は明言して憚らない者である。復活呉服橋劇場第一夜の演題にこの神秘邪妖探偵劇『二重心臓』を筆者が推選した理由は実に懸ってこの一事に潜在しているので、現代社会の裏面の到る処に波打っているであろう邪妖怪『二重心臓』の鼓動が、如何にしてこの奇怪なる大犯罪事件を描き現わしたかという真相、経過を諸君の眼
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