……」
 と云ううちに轟氏の背後から廻転椅子ごしに甘えかかるようにして頬をスリ寄せながら、帯の間から短剣を取出し、白い腕の蔭に隠して轟氏の胸に近付け、不意に両手で握って力任せにグッと刺す。
「ガッ……ナ何を……するッ……ガアッ……ムムムムム……」
 その時に硝子《ガラス》窓の外から、最前の生蕃小僧が覆面の顔を覗かせる。電光イヨイヨ烈しくなる。
 呉羽は虚空を掴んだままの轟氏の両手を避けながら、刺さっている刃物の十字形の※[#「※」は「木+霸」、第3水準1−86−28、218−7]《つか》を、鼻紙で用心深く拭い上げ、事務机の一番下の曳出《ひきだし》から生蕃小僧の脅迫状を探し出して、その中《うち》の一枚を元に返しながら懐中し、曳出《ひきだし》の表面に残っている指紋に呼吸《いき》を吐きかけ吐きかけ念入りに鼻紙で拭き取っている中《うち》に、窓|硝子《ガラス》をコツコツとたたく音を聞付け、ハッとして振返る。
 窓の外の生蕃小僧、覆面を除き、白い歯を露《あら》わしつつ眼を細くして笑い、ここを開けよという風に手真似をする。呉羽はわななく手で曳出《ひきだ》しからピストルを取出し、襦袢の袖に包み、引金に指をかけながら近付き、やはり襦袢の袖でネジを捻じって窓を開ける。生蕃小僧は外に立ったまま依然として笑いながら声をひそめる。
「呉羽さん。相変らず綺麗ですなあ」
「……………………」
「私《あっし》ゃこれで貴女《あなた》の生命《いのち》がけのファンなんだよ。ドンナに危《ヤバ》い思いをしても、貴女《あなた》の芝居ばっかりは一度も欠かした事はないし、ブロマイドだって千枚以上|蓄《た》めているんだぜ。ハハ」
「……………………」
「しかし、心配しなくともいいんだよ。どうもしやせんから……あっしはねえ……」
「……………………」
「あっしはね。モウ御存じかも知れんが、貴女《あなた》や、その轟さんとは相当、古いおなじみなんだ。あっしを手先に使って、貴女の御両親を殺させた、その轟九蔵って悪党に古い怨恨《うらみ》があるんでね。タッタ今二千円をイタブッて出て行ったばっかりのところなんだが……どうも彼奴《あいつ》の呉れっぷりが美事なんでね。万一、警察《さつ》へ密告《さし》やしめえかと思って、途中の自働電話から彼奴《あいつ》を呼出して、もう一度用事が出来たからと云っておいて、引返してみたら、約束しておいた玄関の扉《と》が開かない。おかしいなと思って、ここへ来て様子を見ているうちに、何もかも見てしまったんだがね……ヘヘヘ……何も心配しなくたっていいんだよ。呉羽さん。ちょうど、あっしが思っていた通りの事をアナタが遣ってくんなすったんだから、お礼を云いてえくれえのもんだ。お蔭であっしも奇麗サッパリと思い残すことがなくなりましたよ。ヘヘヘ……どうも、ありがとうがんす」
「……………………」
「ヘヘヘ。だから万一あっしが検挙《あげ》られたって、決して今夜の事あ口を割りやしません。アンタのしなすった事は、何もかもアッシが背負《しょ》って上げます。ドウセ首が百|在《あ》ったって足りねえ身体《からだ》なんだからね。ハハハ」
「……………………」
 呉羽はピストルを取落しヨロヨロと後退《あとじさ》りして踏止まり、両袖を胸に抱き締めて一心に生蕃小僧の顔を見詰める。
「ハハハ。その代りにねお嬢さん。万が一にも、あっしが無事に逃走了《ふけおお》せたら、どこかで、タッタ一度でもいいから、あっしの心を聞いて下さいよ……ね……」
「……………………」
 生蕃小僧はうなだれたまま神に祈るようにつぶやく。遠雷の音……。
「しかし、それあ、あっしみてえな人間にとっちゃ、及びもねえ事かも知れねえ。だから万一御用を喰っちまえあ、貴女《あなた》の罪を背負って行くのがタッタ一つの楽しみでさ。ヘヘヘ。あっしみてえな人間の心あ貴女《あなた》みてえな女《ひと》でなくちゃあ理解《わか》ってもれえねえからな」
「……………………」
 生蕃小僧はチョット涙を拭いてニヤニヤと笑った。
「ヘヘヘ。それからね。チット未練がましい長文句になって済まねえが、明日《あす》の朝は、せめてアッシにお線香でも上げるつもりで、出来るだけ朝寝しておくんなさいね。その轟九蔵の死骸がアンマリ早く見付かっちゃ困るんだ。銀行へ行ってお金を受取らなくちゃなりませんからね。いいかね。お頼ん申しますよ」
 と云う中《うち》に姿は闇の中に消えて、声だけが朗らかに残った。
「……オットット……その窓は、そのまんま開け放しといた方がいいね。閉め切っとくと、オマハンの首に縄がかかるんだ。ハハハハハハ……」
 やがてバラバラと雨の音……烈しい電光……。
 あとを見送った呉羽はホッとため息した。そうしてニッコリとあざみ笑いをしいしい入口の扉《ドア》の把手《ハンドル》を、袖口でシッカリと拭い上げてから、舞台正面、中央の青ずんだフットライトの前まで来ると、大きな眼をパチパチさせてビックリしたように場内一面の観衆を見まわした。……すると……その背後の天井裏から新調らしい、真白い緞子《どんす》の幕がスルスルと降りて来て、一切の舞台面を霧のように蔽い隠した。
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒホホホホホホホホホハハハハハ……」
 底の抜けるほど朗らかな、明るい呉羽の笑い声が、満場におののき渡った。
 トタンに場内の片隅から、低いけれどもケタタマシイ、慌てた声が起った。
「芝居だよ芝居だよ。タカが芝居じゃないか。ビクビクするな。シッカリしろ……シッカリして舞台を……アッ。いけねえいけねえ。脳貧血脳貧血。チョット誰か……来て……」
 そうした若い男の声が、一層モノスゴク場内を引締めた。
 しかしその声の方向を振り向いて見る者すら居なかった。場内はさながらに数千の人間を詰めた巨大な花氷のように冷たく凝固してしまっていた。その中《うち》に呉羽の笑い声が今一度華やかに、誇りかに閃めき透り初めた。
「ホホホホホホハハハハハハ……。いかがで御座います皆様……おわかりになりまして? 轟九蔵を殺したのは私だったので御座いますよ。皆様からこれほどの身に余る御引立を受けまして、轟九蔵からあれほどまで可愛がられておりました私だったので御座いますよ。ホホホハハハハハ……。
 ……その殺しましたホントの理由と申しますのは……どうぞ恐れ入りますが今晩のお芝居を、第一幕から今一度繰り返して御考え下さいまし。当劇場の探偵劇を御ひいき下さいます皆様は、すぐに御察し下さることと存じます。
 ……私は、父の甘木柳仙が老年になってから生まれました長男だったので御座います。そうして只今も取って十九歳に相成ります甘木三枝と申す男の子なので御座います。ハハハハホホホホホ……私の実父の柳仙は旧弊な人間で御座いましたので、老人の一人子は、その子供の性を反対に取扱って育てますと……女の児《こ》は男の児《こ》の通りに……又男の児《こ》は女の児《こ》の通りにして育てますと、無事に成長させる事が出来る……とよくソンナ事を申します迷信から、わざわざ私を女の児《こ》という事にして三枝という名前を附けて役場に届けまして、それから何もかも女の児《こ》として育てられながら、だんだんと大きくなってまいりますうちに、私自身でも、自分が男だか、女だかわからない位、声から姿までも……心までも女らしくなってしまったので御座います。只今、こう申しております中《うち》にも皆様はまだ私を一人前の女と信じ切っておいでになる方が、かなり大勢おいでになる事で御座いましょう。ホホホホホホハハハハハハハハハ……。
 ……ところがツイこの頃になりまして、そうした女性的な習慣に埋もれておりました私の心が、いつの間にか男性として眼醒《めざ》め初めたので御座います。そうして今晩のお芝居で、お眼にかけました通りに、あの轟九蔵の執拗《しつこ》い変態的な[#底本では「変態的の」と誤記]愛がたまらなく厭《いや》になりまして、あの純真なソプラノ歌手の美鳥さんと一所になりたいばっかりに、止むに止まれない切ない気持から、あのような無鉄砲な事を仕出かしまして、満都の皆様方に、お詫の致しようもないお心づかいを、おさせ申したので御座います。そうしてその上にも因果な事には、女としての私に恋|焦《こが》れておりましたあの兇悪無残の殺人鬼、生蕃小僧が、女性としての私を恋する余りに、それこそ生命《いのち》がけで私の罪悪をカバーしてくれましたお蔭で、やっと今日まで娑婆《しゃば》に生き永らえまして、おなつかしい皆様に今一度、斯様《かよう》な舞台姿で、お目にかかる事が出来たので御座います」
「芝居だ芝居だ」
「スゴイスゴイ……」
「ああ……たまらねえ」
 満場の人々のタメ息が一瞬間笹原を渡る風のように渦巻きドヨめいて直ぐに又ピッタリと静まった。
「……けれども皆様お聞き下さいまし。私は、こうして大罪を犯してしまいますと、今一度、夢から醒めたような気持になってしまいました。静かに自分自身を振り返る事が出来るようになりました。男性として眼醒めました私は、今度は男性としての良心に眼醒め初めたので御座います。私のような鬼とも獣《けだもの》とも、又は蛇だか鳥だかわかりませぬような性格の人間が、あの女神のように清らかな美鳥さんに恋をするのは間違っている。私のこの血腥い呼吸が、ミジンも曇りのないアノ美鳥さんのお顔にかかってはいけない。私のこの爛《ただ》れ腐った指が、あの美鳥さんの清浄無垢の肉体《おからだ》にチョットでも触れるような事があってはならぬということを深く深く思い知りましたので、そうした私の心持を、ホンノ少しばかりでもいい、美鳥さんに理解《わか》って頂きたいばっかりに、このお芝居を思い付いたので御座います。……で御座いますからこのお芝居の終り次第に、私の持っておりますものの全部を、心ばかりの贐《はなむけ》として、私の顧問を通じて美鳥さんに受取って頂く準備がモウちゃんと出来ているので御座います。……美鳥さんは私のこうした気持をキット受け入れて下さる事と信じます。そうしてあの可哀そうな殺人鬼、生蕃小僧の罪名が、すこしでも軽くなるように、心から世話して下さるに違いないと思います」
「シバイダ……シバイダ……」
「ホホホホ……まったくで御座いますわねえ。この世は何もかもお芝居で御座いますわねえ……。ですから私も、こうして最後のお芝居を打たして頂きまして、私の一生涯を貫いておりますこのノンセンスこの上もない怪奇探偵、邪妖劇の幕を閉じさして頂くので御座います。……生蕃小僧と手に手を取って絞首台へ登るような作りごとはモウどうしても出来なくなったからで御座います。私は、私の真実にだけ生きて行きたくなったからで御座います。
 ……おなつかしい皆様……お名残り惜しゅう御座いますが天川呉羽は、もうコレッキリ永久に皆様の前から消失《きえう》せなくてはなりませぬ。
 ……では皆様……さようなら……御機嫌よう御過し下さいませ」
 低く低く頭を下げた天川呉羽の、大きな水々しい前髪の蔭から玉のような涙がハラハラと滴り落ちるのが、フットライトに閃めいて見えた。
「シバイダ……シバイダ……」
「……バ馬鹿ッ……芝居じゃないゾッ……芝居じゃないんだぞッ……ト止めろッ……」
 突然に叫び出した浴衣がけの若い男が一人、最前列の左側の見物席から、高い舞台の板張に飛付いて匍い上ろう匍い上ろうと藻掻《もが》き初めた。それを冷然と流し目に見た天川呉羽は、慌てず騒がず、内懐《うちふところ》に手を入れて、キラリと光るニッケルメッキ五連発の旧式ピストルを取出した。自分の白い富士額の中央に押当ててシッカリと眼を閉じた……と思う中《うち》に、
 ……轟然一発……。
 美しい半面をサット真紅に染めた呉羽は、ニッコリと笑って両手を合わせた。背後の白幕に虹のような血飛沫《ちしぶき》を残しながら、フットライトの前にヒレ伏した。
 トタンにヤット見物席から匍い上った浴衣がけの男が、飛び上るように呉羽の身体《からだ》に取付いた。綺麗に分けた髪を振乱したまま正面に向って悲壮な声で叫んだ。

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