晴れ渡り
 かがやかに雲流る 大空よああ大空よ」
「うらわかき吾が思い はてしなく澄み渡り
 すずろかに風流る 大空よああ大空よ」
「ウム。なかなか立派な声になった。学校というものは有難いものだ」
 兄妹《きょうだい》同時に頭を下げる。
「ありがとう御座います」
「ああ。御苦労だった、お蔭でいい心持になった……ウム。それからなあ。きょうは久し振りに娘の三枝と一所に夕食を喰べるのじゃから、お前たちも来て一所に喰べてくれ」
 二人顔を見合わせて喜ぶ。
「ハハハ。嬉しいか」
「ありがとう御座います」
「おじさま。ありがと」
「うむ。なかなか言葉が上手になったな。もう日本人と変らんわい。ハハハ。どうだい。お前たちは日本と朝鮮とドッチが好きかね」
「僕日本の方が好きです」
「何故日本が好きかね」
「朝鮮には先生みたいに外国人を可愛がる人が居りません」
「ハハハ。外国人はよかったな。美鳥はどうだい」
「あたし豆満江《とまんこう》がもう一ペン見とう御座いますわ」
「うむうむ。その気持はわかるよ。あの時分はお前達と雪の中で、ずいぶん苦労したからなあ」
「おじ様が毎日|鮭《さけ》を捕えて来て、あたし達に喰べさして下さいましたわね」
「アハハハ。ところでお前たちは、あれから毎日毎日三枝と兄妹《きょうだい》みたようにして暮して来ているが、これから後《のち》も、このおじさんに万一の事があった時に、今までの通りに仲よくして暮して行けるかね。参考のために聞いておきたいが……」
「出来ます。僕、呉羽さん大好きです」
「美鳥はどうだい」
「わたくし……好きです……トテモ。ですけど……何だか怖《こ》おう御座いますわ」
「ナニ怖い。どうして……」
 美鳥、恥かし気にしなだれる。轟氏もキマリ悪るそうに顔を撫でて笑う。
「怖いことなんかチットモないんだよ。アレは負けん気が強いし、小さい時から世の中のウラばかり見て来とるから、あんな風になったんだよ。ホントは実に涙もろい、純情の強い人間なんだよ」
「呉羽さんはエライ女《ひと》ですよ。何でも御存じですからね。悪魔派の新体詩だの、未来派の絵の批評が出来るんだから僕、驚いちゃった」
「ウム。わしの感化を受けとるかも知れん。わしも元来は平凡な、涙もろい人間と思うが、あんまり早くエライ人間になろうと思うて、自分の性格を裏切った人生の逆コースを取って来たために、物の見え方や聞こえ方が、普通の人間と丸で違ってしもうた。悪魔のする事が好きで好きで叶《かな》わん性格になってしもうた。ハハハ。怖がらんでもええぞ美鳥……お前たち兄妹《きょうだい》に対しては俺はチットモ悪魔じゃない。平凡な平凡な涙もろい人間だ……その平凡な平凡な人間に時々立帰ってホッと一息したいために、お前達を養っているのだ……イヤ詰まらん事を云うた。それじゃ又、晩に来なさい。夕飯の準備が出来たら女中を迎えに遣るから……」
「おじさま……さようなら……」
「先生……さようなら……」
「ああ。さようなら……」
 二人が退場すると轟氏|呼鈴《よびりん》を押し、這入って来た女中に三枝を呼んで来るように命じ、そのまま寝椅子に長くなる。
 大きな桃割《ももわれ》。真赤な振袖。金糸ずくめの帯を立矢《たてや》の字に結んだ呉羽がイソイソと登場する。
「あら……お父様。お呼びになったの」
「……うむ。こっちへお出で……」
「……嬉しい。又、どこかのお芝居へ連れてって下さるの」
 と呉羽嬢が甘たれかかるのを抱きあげて身を起した轟氏は立上って、入口の扉《ドア》に鍵を卸《おろ》し、窓のカアテンを閉《とざ》して異様に笑いながら寝椅子に帰り、呉羽の身体《からだ》を抱き上げる。
「きょうは、私の方からお前にお願いがあるんだよ」
 と少し真面目に帰りながら、二人の身の上話を初め、前の幕の通りの事を簡略に物語り、二人が真実の親子でない事を明らかにする。
 その一言一句に肩をすぼめ、眼を閉じて魘《おび》えながらも、不思議なほど冷然と聞いていた呉羽は、やがて冷やかな黒い瞳をあげて微笑する。
「それで妾にお願いって仰言るのはドンナ事なの……」
 轟氏は忽ちハラハラと涙を流し、熱誠を籠めた態度で、呉羽の両手を握る。
「……オ……俺は、お前を一人前に育て上げてから、両親の讐仇《かたき》を討たせようと思って、そればっかりを楽しみの一本槍にして、今日まで生きて来たんだ」
「……まあ……そんな事……どうでもよくってよ。今までの通りに可愛がって下されば、あたしはそれでいいのよ」
「……ウウ……そ……それは……その通りだ。……と……ところがこの頃になって……俺は……俺に魔がさして来たんだ。もちろん最初の目的は決して……決して忘れやしない。必ず……必ず貫徹させて見せる。生蕃小僧は、お前の一生涯の讐敵《かたき》だから、この間お前が頼んだように、誰にもわからない処で、一番恐ろしい……一番気持のいい方法で讐敵《かたき》を取らしてやる決心をして、現在、極秘密の中《うち》に、この家の地下室でグングン準備を進めているところだが………」
「……アラッ……ホント……」
「ホントウだとも。もっとも二……二三年ぐらいはかかる見込だがね。骨が折れるから……」
「嬉しい。楽しみにして待っていますわ」
「……と……ところがだ。この頃になったら、その上に……も……もう一つの別の目的が……オ……俺の心に巣喰い初めたのだ。そそ……その目的を押付けようとすればする程……その思いが募って……弥増《いやま》して来て……もうもう一日も我慢が……で……出来なくなって来たんだ」
「まあ。そのモウ一つの目的ってドンナ事?」
「オ……俺は……お前をホントウに俺のものにしたくなったのだ。ああ……」
 轟氏は涙を滝のように流し、両手を顔に当てる。呉羽は本能的に飛退《とびの》いて、傍《そば》の椅子を小楯に取り冷やかに笑う。
「まあ。あなた馬鹿ね。あたし今でも貴方のものじゃないの。この上に妾にどうしろって仰言るの……」
「ウ……嘘でもいいから……オ……俺の妻になったつもりで……俺に仕えてくれ」
「あら。厭な人。あなた妾を恋して、いらっしゃるのね」
 轟氏は寝椅子からズルズルと辷《すべ》り落ちてペッタリと両手を床に支える。乞食のようにペコペコと頭を下げる。
「そ……そうなんだ。タ……助けると思ってこの俺の思いを……」
 呉羽、椅子の背中に掴まったまま、仕方なさそうに身を反《そ》らして高笑いする。
「ホホホホホホホホホホホ可笑《おか》しな方ね。ホホホホホホホホ……」
 その笑い声の中に電燈が消えて、場内が真暗になっても、笑い声は依然として或は妖艶に、或は奇怪に、又は神秘的にそうして忽ちクスグッタそうに満場を蠱惑《こわく》しいしい引き続いている。
 そのうちにソノ笑い声が次第に淋しそうに、悲しそうに遠退《とおの》いて行って、やがてフッツリと切れるトタンに舞台がパッと明るくなり、第二幕の第二場となる。
 呉羽の姿は見えず。黒っぽいモーニングコートに縞《しま》ズボン白|胴衣《チョッキ》の轟氏がタダ独りで、事務机の前の廻転椅子に腰をかけて、金口《きんぐち》煙草を吹かしながら一時二十五分を示している正面の大時計を見ている。左側のカアテンを引いた窓|硝子《ガラス》の外に電光がしきりに閃めくと、窓の前の桜がスッカリ青葉になっているのが見える。その電光の前に覆面の生蕃小僧が現われコツコツと窓|硝子《ガラス》をたたく。
 轟氏が立って行って開けてやると両足を棒のように巻いた生蕃小僧が、手袋を穿めた片手にピストルを持って這入って来る。
「ハハハ。よく約束を守ったな」
 轟氏は用意の小切手を生蕃小僧に与える。
「この次は真昼間、玄関から堂々と這入って来い。夜は却《かえ》って迷惑だ」
「卑怯な事をするんじゃあんめえな」
「俺も轟九蔵だ。貴様はモウ暫く放し飼いにしとく必要があるんだ。今日は特別だが、これから毎月五百円|宛《ずつ》呉れてやる。些くとも二三年は大丈夫と思え」
「そうしていつになったら俺を片付けようというんだな」
「それはまだわからん。貴様の頭から石油をブッ掛けて、火を放《つ》けて、狂い死《じに》させる設備がチャントこの家の地下室に出来かけているんだ。俺の新発明の見世物だがね……グラン・ギニョールの上手を行く興行だ。その第一回の開業式に貴様を使ってやるつもりだが……」
「そいつは有り難い思い付きだね。しかし断っておくが、俺はいつでも真打《しんうち》だよ。前座は貴様か、貴様の娘でなくちゃ御免蒙るよ」
「それもよかろう。しかしまだ見物人が居らん。一人頭千円以上取れる会員が、少くとも二三十人は集まらなくちゃ、今まで貴様にかけた経費の算盤《そろばん》が取れんからな。とにかく油断するなよ」
「ハハハ。それはこっちから云う文句だ。貴様が金を持っている限り、俺は貴様を生かしておく必要があるんだ。俺はまだ自分の弗箱《ドルばこ》に手を挟まれる程、耄碌《もうろく》しちゃいねえんだからな……ハハンだ」
「文句を云わずにサッサと帰れ。俺は睡いんだ」
 轟氏、生蕃小僧が出て行った窓をピッタリと閉め、床の上の足跡を見まわし、葉巻に火を付けながら何か考え考え歩きまわっている中《うち》に、微かな電鈴の音を聞き付け、
「ハテナ。電話かな」
 とつぶやきながら廊下へ出て行く。入れ代って大きな白い手柄の丸髷に翡翠《ひすい》の簪《かんざし》、赤い長襦袢、黒っぽい薄物の振袖、銀糸ずくめの丸帯、白足袋《しろたび》、フェルト草履《ぞうり》という異妖な姿の呉羽が、左手の扉《ドア》から登場し、奇怪な足跡に眼を附け、一つ一つに窓際まで見送って引返し、机の上の小切手帳を覗き込んで何やら首肯《うなず》き、唇をキッと噛んで部屋の中をジロジロ見まわしながら考えている中《うち》に突然、ポンと手を打合わせてニッコリ笑い、残忍な眼付で入口の扉《ドア》を振返りつつ、机の上の短剣型ナイフを取上げて素早く帯の間に隠すところへ、電話をすました轟氏が帰って来て悠々と扉《ドア》を閉め、立っている呉羽と向い合ってギョッとする。
「ナ……何だ……何だ今頃……何か用か……」
「ハイ。きょう……昼間にお願い致しました事の、御返事を聞かして頂きに参りましたの」
「美鳥と結婚したいという話か」
「ええ……貴方の眼から御覧になったら、飼って在る小鳥が、籠の中から飛出したがっている位の、詰まらないお話かも知れませんけども……妾……あたしこの頃、急にそうして、今までの妾の間違った生活を清算したくてたまらなくなりましたの」
「ならん……そんな馬鹿な事は……俺の気持ちも知らないで……」
「ホホ。お憤《いきどお》りになったのね。ホホ。それあ今日までの永い間の貴方のお志は何度も申します通り、よくわかっておりますわ。……ですけど……あたしだって血の通っている人間で御座いますからね。最初から貴方のお人形さんに生れ付いている犬猫とは違いますからね。もうもう今までのような間違った、不自然な可愛がられ方には飽き飽きしてしまいましたわ」
「……カカ……勝手にしろ。馬鹿。俺のお蔭で生きているのが解らんか」
「どうしても、いけないって仰言るの……」
「ナランと云うたらナラン……」
 と云い捨てて廻転椅子に腰をかけ、事務机の上を片付け初める。
「オヤ。紙小刀《かみきり》が無い。鞘《さや》はここに在るんだが……お前知らんか……」
「存じませんわ。ソンナもの……」
「彼品《あれ》はトレード製の極上品なんだ。解剖刀《メス》よりも切れるんだから無くなると危険《あぶな》いんだ。鞘に納めとかなくちゃ……」
「よござんすわ。あたし、どうしても美鳥さんと結婚してみせるわ。キットこの家《うち》で美鳥さんに子守唄《ララバイ》を唄わせて見せるわ」
「……………………」
「何と仰言ったって美鳥さんを逐出《おいだ》させるような残酷な事は、断じて、断じてさせないわ」
「……勝手にしろッ。コノ出来損ないの……カカ片輪者《かたわもの》の……ババ馬鹿野郎ッ……」
「ネエ。いいでしょう……ねえ。ねえエ……あたしだってモウ……年頃なんですものオ
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