……まあ怖い……」
「それから夕方になって汗だくだくの綿貫警部補が、礼を云い云い返しに来た時の話によると大変だ……あの筋書は、この間死んだ轟九蔵氏と、犯人以外に一人も知っている筈がない。きょうが今日まで犯人に、あの筋書と同じような事実について口を割らせようと思って、どれ位、骨を折ったかわからないんだが、あの上本《あげほん》が手に這入ったお蔭で犯人がヤット口を割った。多分作者が、死んだ轟氏から秘密厳守の約束か何かで聞いていた話だろうと思って、まだ大森署に置いてある犯人に、あの筋書を読んで聞かせて、間違っている処を訂正させた序《ついで》に、呉羽さんの興行の話を聞かせてやったら、ドウダイ突然に顔色を変えて、その興行を差止めて下さいと怒鳴り出したもんだ。折角の私の苦心が水の泡になりますと云うんだそうだ」
「生蕃小僧がそう云うの……」
「ウン。怖い顔から涙をポロポロこぼして泣きながら、私の一生のお願いで御座います。ドウセ死刑になります身体《からだ》に思い残す事はありませぬが、こればっかりはお情です。どうぞやドウゾお助けを願います。さもなければここで舌を噛んで死にます……と云って、しまいにはオデコを板張に打ち附けて、顔中を血だらけにして、キチガイのように暴れまわりながら哀願するんだそうだ」
「……まあ……何て気味の悪い……」
「……だから綿貫司法主任が、そんならその貴様の苦心というのは何だって聞いてみたら、こればっかりは御勘弁を願います。とにかくそのお芝居ばっかりは、お差し止めにならないと大変な事になります。さもなければ、そのお芝居の初まる前にモウ一度天川呉羽さんに会わして下さい。お願いですお願いですと滅法《めっぽう》矢鱈《やたら》に駄々《だだ》を捏《こ》ねて聴かないのには往生した。死刑囚にはよくソンナ無理な事を云って駄々《だだ》を捏ねる者が居るそうだがね。それにしても何が何だか訳がわからないもんだから、昨日《きのう》から大騒ぎをして僕の行衛《ゆくえ》を探していたところだった……という、その保安課の片山警部の話なんだ」
「まあ……それからドウなすって……」
「僕も何が何だか、わからなくなっちゃったからね。ナアニ、あの脚本はやはりお察しの通り轟さんから生前に聞いた通りの事を勧善懲悪式に脚色しただけのものなんです。それじゃ今から大森署へ行って、司法主任に会って、よく相談して来ましょう……と云って、逃げるように警視庁を飛び出して来たのがツイ二時間ばかり前なんだ。それから危ないと思ってここに来て、楽屋裏に隠れていたんだ。ウッカリ捕まると、芝居が見られなくなると思ったからね」
「まあ。それでヤット訳がわかったわ。あのね、警察の人にはドンナ事があっても呉羽さんから聞いたって仰言っちゃ駄目よ」
「勿論さ。轟さんから直接に聞いた事にするつもりだが、それでも今夜、この芝居を見たら直ぐにも大森署へ行ってみなくちゃならん。犯人にも会わなくちゃなるまいかとも思っているんだが、とにかくこの芝居の演出を見た上でないと、カイモク方針が立たないんだ」
「どうして犯人がソンナにこの芝居を怖がるのでしょう。どうせ死刑になる覚悟なら、それより怖いものはない筈でしょうに……」
「さあ。ソンナ事はむろん、わからないね」
「それにしても今夜の場内《いり》スゴイわね。この中に生蕃小僧の人気が混っていると思うと、妾何だか気味が悪いわ。みんな死刑を見に来たような顔ばかり並んでいるようで……」
「ウン。これが又、僕の心配の一つなんだ。あの広告じゃ、たしかにインチキの誇大広告だからね。第一ポオの原作っていうのからして大ヨタなんだから……僕が夢にも思い付かなかった作り事なんだからね。今夜の演出がわかったらキット興行差止《チリンチリン》を喰うにきまっている」
「アラ。今夜のお芝居も駄目になるの」
「イヤ。そんな事はないだろう。ドンナに無茶な芝居を演《や》ったって、思想や風教や政治向に関係してない限り、その場で臨席の警官から差止められるような事は、今までに一度も例がないんだからね……問題は明日《あす》の芝居なんだが」
「呉羽さんは今晩一晩でウント売上げようと思っていらっしゃるんじゃないの。罰金覚悟で……」
「そうかも知れんね」
「そんならトテモ凄い興行師じゃないの」
「ウン。しかも、そればかりじゃないんだよ。あの女《ひと》は世界に類例のない偉大な女優であると同時に、劇作と犯罪批評の天才だよ。……同時に悪魔派の詩人かも知れないがね」
「あたし何だかドキドキして来たわ」
「暑いからだろう」
「イイエ。呉羽さんの天才が怖くなって来たのよ。ドンナ演出をなさるかと思って……」
こんなヒソヒソ話が進行しているのは一階正面中央の特等席であった。旅疲れのままで、一層、醜くくなった職工風の江馬兆策と、青白いワンピースに、タスカンのベレー帽をチョッと傾けた、女学生みたいに初々《ういうい》しい美鳥の姿は、世にも微笑ましいコントラストを作っているのであった。
呉服橋劇場内は、文字通りの殺人的大入であった。あまりの大入りなので観客席の整理が不可能になったらしい。外廊《そとろう》から舞台の直前まで身動き出来ない鮨詰《すしづめ》で、一階から三階までの窓を全部|明放《あけはな》し、煽風機、通風機を総動員にしても満場の扇《うちわ》の動きは止まらないのに、切符売場の外ではまだワアワアと押問答の声が騒いでいるのであった。
定刻の六時に五分前になると場内から拍手の洪水が狂騰した。その真正面の幕前の中央に、若い背の高い燕尾服の男が出て来て、恭《うやうや》しく観客に一礼して後《のち》、何事か喋舌《しゃべ》り出したからであった。それも最初の間はさながらにこうした未曾有《みぞう》の満員状態を面白がっているような盲目的な拍手に蔽われて、言葉がよく聞き取れなかったが、その中《うち》に群集のドヨメキが静まると、やがて若々しい朗らかな声が隅々までハッキリと反響し初めた。
「あら。アレ寺本さんじゃない?」
「ウム。以前《もと》はロッキー専属のテノルで相当のところだったよ」
「いい声ね……」
「ええ。ところで早速では御座いますが、今晩のお芝居の興味の中心と申しますのは、広告にも掲載致しました通り、前の当劇場主、故、轟九蔵氏を殺害致しました犯人の、まことに古今に類例のない恐ろしい心境を脚色し、的確にして且つ、意外千万な真犯人を指摘致しますところに在りますので、特に、最後の一幕と申しまするのは、このたび新しい当劇場主と相成りました天川呉羽嬢の独白、独演と相成っているので御座います。ふつつかながら斯界《しかい》に於きまして、仏蘭西《フランス》のパオロ・オデロイン夫人と相並んで、邪妖探偵劇の二|明星《みょうじょう》とキワメを附けられております天才女優、天川呉羽嬢が、その最後の独白、独演において、どのような物凄い演出を行い、この二重心臓の舞台面を、どのように戦慄的なクライマクスにまで導きますかという筋書は、遺憾ながら当の本人の天川呉羽嬢以外に、作者、座員一同の誰もが一人として存じておりませぬ事を、前以てお含みまでに申上げておきます。……すなわち今晩御来場の皆様は、過般、満都の諸新聞に報道されました探偵劇王、轟氏の遭難の実情を、一方《ひとかた》も残らず御存じの事として演出致しますので、従ってその遭難の実情に関する説明は、勝手ながら略さして頂きます。そうしてここにはただ斯様《かよう》な、予期致しませぬ過分の御ひいきのために、万一プログラムを差上げ落しました方が、おいでになりはしまいかと存じますから、そのような方々の、単なる御参考と致しまして、極めて心理的に構成されております各幕の内容を短簡に申上げさして頂くに止めます。
第一幕……探偵劇王殺害事件の遠因――兇賊生蕃小僧と等々力久蔵親分活躍の場面。二場。
第二幕……探偵劇王殺害の動機、及、殺害の現場《げんじょう》。二場。
第三幕……探偵劇王の後継者、天川呉羽嬢、独白、独演。真相説明の場。一場。――以上――」
満場割れむばかりの拍手が起ったが今度は直ぐにピッタリと静まった。舞台の片隅で冷たいベルの音が断続する中《うち》に、幕が静かに揚り初めたからであった。
一階から三階までの窓は全部、いつの間にか閉されていた。場内はたまらない薄暗さと、蒸暑さに埋もれていたが、それでも何千の人が作る氷のような好奇心が、場内一パイに冴え返っていたせいであったろう。扇《おうぎ》の影一つ動かない深海の底のような静寂さが、一人一人の左右の鼓膜からシンシンと沁[#底本では「泌」と誤記]《し》み込んで来るのであった。
第一幕、第一場は、静岡県見付の町外れの国道に面する草原《くさはら》の場面であった。その草原の中央の平石に腰をかけている若親分、等々力久蔵の前に、金モール服の薬売人《オッチニ》に化けた生蕃小僧こと、石栗虎太が胡座《あぐら》をかいて、ポケットの中からピストルを突付け、等々力久蔵の妻君の不行跡を曝露し、嘗て、或る処で、自分が等々力の妻君から貰ったという紫水晶の簪《かんざし》を見せびらかしつつ、甘木柳仙宅襲撃の仕事を見逃がしてくれるように頼み込む。等々力久蔵は暫く考えてから承諾の証拠に、紫水晶の簪を受取り、生蕃小僧と別れる。それから生蕃小僧が立去って後《のち》に、妻と世話人を草原に呼んで来て、証拠の簪を突付け、厳そかに離別を申渡し、涙を払いながら決然として立去る。木立の蔭からその光景を窺っていた生蕃小僧が立出で、腕を組んだまま物凄い冷笑を浮かべて等々力久蔵の後姿を見送り、
「トテモ追出しゃあしめえと思ったが……この塩梅《あんばい》では愚図愚図しちゃいられねえぞ」
と独りでうなずきながら立去る場面《ところ》であった。
続いて舞台がまわると甘木柳仙自宅の場で、等々力久蔵が柳仙夫婦から娘の三枝を借受け、それとなく三枝に左様ならを云わせ、思入れよろしくあって退場する。そのままの場面で日が暮れると生蕃小僧が忍び入り、柳仙夫婦を惨殺し、家《うち》中を探しまわって僅少の小遣銭を奪い、等々力久蔵に計られたかなと不平満々の捨科白《すてぜりふ》を残して立去るところであった。
幕が締ると皆ホッとして囁き合った。
「ねえお兄様。イクラか書換えてあって?」
「ウン。それが不思議なんだ。この幕は大体から見て僕が書下した通りなんだ。あんな大道具をどこに蔵《しま》って在ったんだろう……ただ柳仙夫婦の殺されの場がすこし違うようだね。あんな風に老人の柳仙が頭からダラダラ血を流して拝むところなんぞはなかったよ。キット睨まれると思ったからカゲにしておいたんだがね」
「警察の人は来ているんでしょうか」
「来ていても今晩は何も云わないのが不文律みたいになっているから大丈夫だよ。その代り明日《あす》になるとキット差止めるとか何とか威かして来るにきまっているんだ。もっとも呉羽さんは、それを覚悟の前で演《や》ってるのかも知れないがね」
「……でも轟さんと呉羽さんの前身だけは今の幕で想像が付くワケね」
「ナアニ。みんな芝居だと思って見ているんだから、そんな余計な想像なんかしないだろう」
「そうかしら……でもポオの原作なんて誰も思やしないわよ。あれじゃ……」
「フフフ。黙ってろ。幕が開《あ》くから……オヤア……これあ西洋|室《ま》だ……おれア日本|室《ま》にしといた筈だが……」
「……シッシッ……」
第二幕の第一場は大森の天川呉羽嬢邸内、轟九蔵氏自室の場面であった。部屋の構造から品物の配置、主人轟九蔵氏の扮装に到るまで、すべて実物の通りで、窓の外に咲き誇っている満開の桜までも、寸分違わない枝ぶりにあしらってある。
その東の窓際の寝椅子に、着流しの轟九蔵氏が長くなっている足先の処に、美術学校の制服を着た、イガ栗頭の江馬兆策に扮した俳優が腰をかけている。その前に音楽学校のバンドを締めた美鳥ソックリの少女が姿勢正しく立って、美鳥のレコードを蔭歌にして独唱をしている体《てい》。それを轟氏が、如何にも幸福そうに眼を細くして聞いている。
「うらわかき吾が望み 青々と
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