を上げてみたいと思ってんの……」
「ヘエ。最後の一旗……」
「こうなんですの……きょうは八月の四日、日曜日でしょう。ですから今日から来月の第一土曜、九月の七日の晩まで、丸っと一《ひ》と月お芝居を休まして、座附の人達の全部を妾に任せて頂きたいんですの。費用なんか一切あなたに御迷惑かけませんからね。妾はあの役者《ひと》達を連れて、どこか誰にもわからない処へ行って、妾が取っときの本読みをさせるの」
「貴女《あなた》が取っときの……」
「ええ。そうよ。これなら請合いの一生に一度という上脚本《キリフダ》を一つ持っていますからね。その本読みをしてスッカリ稽古を附けてから帰って来て、妾の引退興行と、呉服橋劇場独特の恐怖劇の最後の興行と、劇場主轟九蔵氏の追善と、大ガラミに宣伝して、涼しくなりかけの九月七日頃から打てるだけ打ち続けたら、キット相当な純益《もの》が残ると思いますわ」
「さあ……どうでしょうかね」
「いいえ。きっと這入《アタ》ってよ。それにその芝居《キリフダ》の筋《ネタ》というのが世界に類例のない事実曝露の探偵恐怖劇なんですから……」
「事実曝露……探偵恐怖劇……」
「そうなのよ。つまり妾の一生涯の秘密を曝露《バラ》した筋なんですから……これを見たら今度の事件の犯人だって、たまらなくなって、まだ誰も知らない深刻な事実を白状するに違いないと思われるくらいスゴイ筋なんですからね……自慢じゃありませんけど……ホホホ……」
 彼女はスッカリ昂奮しているらしかった。白磁色の頬を火のように燃やし、黒曜石《こくようせき》色の瞳を異妖な情熱に輝やかしつつ、彼女の方からウネウネと身体《からだ》を乗出して来たので、たまらない息苦しい眩惑をクラクラと感じた支配人は、今更のようにヘドモドし初めた。相手の白熱的な芸術慾に焼き尽されまいとして太い溜息を何度も何度も重ねた。ハンカチで汗を拭き拭き慌て気味に問い返した。
「……ド……どんな筋書で……」
「それは……ホホホ……まだ貴方に話さない方がいいと思うわ。兎《と》に角《かく》一切貴方に御迷惑かけませんから貴方は今から九月の七日過ぎる迄、久振りに温泉か何かへ行って生命《いのち》の洗濯をしていらっしゃい。タッタ一箇月かソコラの間ですから、その間中貴方は絶対に妾の事を忘れていて下さらなくちゃ駄目ですよ。さもないと将来の御相談は一切お断りしますよ。よござんすか。仕事は一切私が自分でしますから……」
「出来ましょうか貴女に……」
「一度ぐらいなら訳ありませんわ。小さな劇場《こや》ですもの……いつもの通りの手順に遣るだけの事よ。チョロマかされたってタカが知れてますわ」
「資金《おかね》はありますか」
「十分に在ってよ。在り余るくらい……」
「意外ですなあ……どこに……」
「どこに在ってもいいじゃないの……とにかく貴方は今度だけ御客様よ。招待券の二三枚ぐらい上げてもいいわ……ホホ……神戸の後家さん親娘《おやこ》でも引っぱってらっしゃい」
「ジョ……冗談じゃない」
「そうよ。冗談じゃないのよ。真剣よ……妾……それまで処女を棄てたくないんですからね」
「ショ……ショジョ……」
「まあ何て顔をなさるの。妾が処女じゃないとでも仰言るの。ずいぶん失礼ね」
「イヤ。ケ……決してソンナ訳では……」
「そんなら温柔《おとな》しく妾の云う事をお聞きなさい。そうしてモウ時間ですからこの室[#「この室」に傍点]を出て行って頂戴……」

 事件当夜……八月四日の呉服橋劇場は、非常な不入りであった。その日の夕刊を見た人々は皆、当然の休場を予想していたらしく、毎日の定収入になっている[#底本では「よっている」と誤記]御定連の入りすらも半分以下で、最終幕《オオギリ》の前に「当劇場主轟九蔵氏急死に就き勝手ながら整理のため向う一箇月間休場いたします」の立看板を舞台中央の幕前に出した時には、無礼にも拍手した奴が居た。
「ああ。もうこの芝居も、これでおしまいか」と云って今更|名残《なごり》惜しげに表の絵看板を振返る者さえ居た。
 その時にスター女優天川呉羽は、劇作家、江馬兆策と一所に銀座裏のアルプスという山小舎式の珈琲《コーヒー》店の二階で、向い合っていた。白ずくめの洋装をした呉羽は中世紀の女王のようにツンとして……。タキシードの兆策はその従僕のように、巨大な木の切株を中に置いて竹製の腰掛にかかっている。帳場の煤《すす》けたラムプを模した電燈の蔭に、向うむきに坐った見すぼらしい鳥打帽の男がチビリチビリとストローを舐《しゃぶ》っているほかには誰も居ない。部屋の中をチラリと見まわした呉羽は、切株のテーブルの上に肘を突いて兆策の耳に顔を近付けた。兆策も熱心にモジャモジャの頭を傾けた。低い声が部屋中にシンシンと途切《とぎ》れ散る。
「江馬さん。よござんすか。これは妾の一
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