ないの」
「ええ。ですから云うのです。犯人が貴女《あなた》を見上げた眼が尋常じゃなかったように思うのです。双方から知らん知らんと云いながら、犯人が涙をポロポロ流して、済みません済みませんと頭を下げているのを見た貴女《あなた》が、自動車に乗ってからソッと涙を拭いていたじゃないですか」
「ホホ。あれはツイ同情しちゃったのよ。犯人はどこかで妾に惚れていたかも知れないわ。コンナ女優業《しょうばい》ですからね、ホホ。……そういえば貴方を犯人が見上げた眼付の恨めしそうで凄かったこと。何かしら深い怨みがありそうだったわよ。知らん知らんとお互いに云いながら……」
「……そんな事はない……」
「だから妾もソンナ事はない」
「そ……それじゃ話にならん……」
「ならないわ。最初から……貴方の仰言る事は最初から云いがかりバッカリよ」
「云いがかりじゃありません。つまり貴女《あなた》が結婚したいなんて仰言ったのは、轟さんに対する何かの脅迫手段で、貴女の本心じゃなかったのですね」
「貴方はそう考えていらっしゃるの」
そう云った呉羽の態度にはどこやら真剣なところがあった。笠支配人は太い溜息をした。
「ええ……そう考えたいのです。そう考えなければタマラないのです」
「ホホホ。面白い方ね貴方は……そんな事が、どうしてこの劇場の運命と関係があるんですの」
「大いにあるんです」
笠支配人は急に勢付いたように坐り直した。颯爽たる態度で半身を乗出して、しなやかな呉羽の全身を見まわした。
「貴女も、もう相当に苦労しておられるんですからね」
「……さあ……どうですか……」
「呉羽さん……率直に云いましょうね」
「ええ。どうぞ……」
「僕と結婚してくれませんか」
呉羽は予期していたかのように、横を向いたまま、唇の隅で小さく冷笑した。その凄艶とも何とも譬《たと》えようのないヒッソリした冷笑が、呉羽の全身に水の流れるような美くしさを冴え返らせて行くのを見ると笠支配人は、思わずワナナキ出す唇を一生懸命で噛みしめた。ここが一生の運命の岐《わか》れ目と思い込んでいるらしい真剣味をもって、今一層グッと身を乗出しながら、男盛りの脂切《あぶらぎ》った顔を光らした。
「ね。おわかりでしょう。僕の気持は……今、貴方から拒絶されると、僕はモウこの劇場に居る気がしなくなるのです。もうもうコンナ劇場関係《こやもの》生活だの、探偵劇だのには飽き飽きしているのですからね。天命を知ったとでも云うのでしょうか。モット落付いた、人間らしいシンミリとした生活がしてみたくてたまらなくなっているのですからね」
「……………」
「但し……貴女が僕に新しい生命を与えて下さるとなれば問題は別ですがね」
呉羽は微《かす》かにうなずいた。ヒッソリと眼を閉じたまま……。
「……ね。おわかりでしょう。そうした僕の心持は……」
呉羽は一層ハッキリとうなずいた。
「ええ。わかり過ぎますわ」
「ね。ですから……ですから……僕と……」
笠支配人は青くなったり赤くなったりした。こうした場面によく現われる中年男の醜態[#底本では「醜体」と誤記]を見せまいとしてハラハラと手を揉んだり解いたりした。
「ええ。それは考えてみますわ。女優なんてものはタヨリない儚《はかな》い商売ですからね」
「エッ。それじゃ……承知して……下さる……」
「まッ……待って頂戴よ……そ……それには条件があるのです。妾も……ネンネエじゃありませんからね」
呉羽は今にも自分に飛びかかりそうな笠支配人を、片手を挙げて遮り止めた。笠支配人は誰も居ない部屋の中を見まわしながら不承不承に腰を落付けた。
「そ……その条件と仰言るのは……」
「こうよ。よく聞いて下さいね。いいこと……」
「ハイ。どんな難かしい条件でも……」
「そんなに難かしい条件じゃないのよ。ね。いいこと……たとい貴方《あなた》と妾《わたし》とが一所になったとしても、この劇場の人気が今までの通りじゃ仕様がないでしょ。ね。正直のところそうでしょ。轟家《うち》の財産だって、もうイクラも残ってやしないし……貴方も相当に貯め込んでいらっしゃるにしても遊びが烈しいからタカが知れてるわ」
笠支配人は忽ち真赤になった。モウモウと湯気を吹きそうな顔を平手でクルクルと撫で廻した。
「ヤッ。これあ……どうも……そこまで睨まれてちゃ……」
「ですからさあ……妾だって全くの世間知らずじゃないんですから、好き好んで泥濘《ぬかるみ》を撰《よ》って寝ころびたくはないでしょ。ね。ですから云うのよ。モウ少し待って頂戴って……」
「もう少し待ってどうなるのです」
「あのね。妾もね……この劇場《こや》にも、探偵劇《しばい》にも毛頭、未練なんかないんですけどね。折角、轟さんと一所に永年こうやって闘って来たんですから、せめての思い出に最後の一旗
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