い文月巡査の蒼白い額はジットリと汗ばんでいた。眼の前の空間を睨んで、魘《うな》されているような空虚な声を出した。
「呉羽嬢と、その犯人とは連絡がある……九蔵氏を殺した犯人が無事に逃げられるように、わざと朝寝をして、事件の発覚を遅らした……」
「ワッハッハッハッハ。イカンイカン。イクラ名探偵でも、そう神経過敏になっちゃイカン。世の中には偶然の一致という事もあれば、疑心暗鬼という奴もあるんだよ。シッカリし給え。アハアハアハ……」
文月巡査は夢を吹き飛ばされたように眼をパチクリさして猪村巡査の顔を見た。吾《われ》に帰って頭の毛を叮嚀に撫で付け初めた。
「しかし……それは事実でしょう……」
「おおさ。無論事実だよ。しかもよく在勝《ありが》ちの事実さ。しかも、それよりもモット重大な事実があるんだから呉羽嬢の寝過し問題なんかテンデ問題にならん」
「ドンナ事実です」
「今話した支配人の笠圭之介ね。その笠支配人が台所女中のヨネからの電話で、丸の内のアパートから自動車で飛んで来たのが、今日の十二時チョット前だった。それから主人の死体や何かを吾々立会の上で調べている中《うち》に、机の上に小切手帳が投出してあるのに気が附いた。調べてみると、昨日《きのう》の日附で堀端《ほりばた》銀行の二千円の小切手を誰かに与えている事がわかった。そこで万が一にもと気が付いて、堀端銀行に問合わせてみると、今朝《けさ》の事だ。堀端銀行が開くと同時に二千円を引出して行った者が居るという。それは絽《ろ》の羽織袴に、舶来パナマ帽の立派な紳士であった。色の黒い、背の高い、骨格の逞しい肥った男で、眉の間と鼻の頭に五分角ぐらいの万創膏《ばんそうこう》を二つ貼っていたので、店員は最初何がなしに柔道の先生と思っていた。それだけに至極|沈着《おちつ》いているようであったが、しかし這入ってから出るまで一言も口を利かず、何気もない挙動の中に緊張味がみちみちて、油断のない態度であった。尚、新しいフェルトの草履を穿いて、同じく上等の新しい籐《とう》のステッキを握っていたという」
「それが犯人だと云うんですか」
「むろんそうだよ。その報告を聞いた笠支配人は、その小切手を誰も触らないように、紙に包んで保存しておいてくれと頼んで、直ぐにその旨を吾々に報告したがね」
「ナカナカ心得た男ですなあ」
「ウン。近頃の素人は油断がならんよ。つまりその犯人は轟九蔵氏に脅迫状をタタキ附けた後《のち》に、九蔵氏が約束通り事務室で待っているところへ、窓を開けさして這入って来た。それから二千円の小切手を書かせ、後難を恐れて不意打に刺殺《さしころ》し、発覚しない中《うち》に金を受取って行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましたという事になるんだね。つまり九蔵氏が……もしくは轟家の連中が、普通よりも寝坊である事を熟知している犯人は、朝早くならば大丈夫と思って、堂々と金を受取りに行ったと思われるんだ。何でもない事のようじゃが今の眉の間と、鼻の頭に貼った五分角ぐらいの万創膏が、アトで研究してみると実に手軽い、しかも恐ろしい効果のある変相術じゃったよ。余程、甲羅《こうら》を経た奴でないとコンナ工夫は出来ん。君もアトで実験してみたまえ、万創膏の貼り方と位置の工合で、同一人でも丸で見違える位、印象が違うて来るからなあ。おまけに運動家らしく肩でも振って行けば、誰でも柔道の先生ぐらいに思うて疑う者は居らんからなあ」
「その小切手に指紋はないでしょうか」
「ドッサリ附いている筈だよ。今調査中じゃが、小切手を書いたこの家《や》の主人のもの、受取った犯人のもの、銀行員のものと些《すくな》くとも三通りは附いている筈だよ。銀行に来た犯人は手袋を穿めていなかったんだからね。笠支配人は到って腰の低い、ペコペコした人間じゃが、流石《さすが》に鋭いところがあると云って、皆感心しておったよ」
「……ところで……その支配人と女優の呉羽は今どこに居るのですか」
「犯人の星が附いて嫌疑が晴れたので、直ぐに大森署へ来て、署長の手で諒解を得てもらって、二人とも大喜びでそのまま呉服橋劇場へ飛んで行ったのが二時半頃じゃったかなあ。今が劇場の生死の瀬戸際というんでね。何でもこの記事が夕刊に出たら、満都の好奇心を刺戟して劇場が一パイになるかも知れないと云ってね。少々慌て気味で二人とも出て行ったよ」
「少々薄情のようですね。そこいらは……劇場関係の人間はアラユル階級の中でも一番薄情だっていう事ですが……この夕刊を見たら誰でも今夜は休場だと思うかも知れないのに……」
「それは、わからないよ。見物人という奴は劇場関係者《こやもの》よりもモット薄情な、モット好奇心の強い人種だからね。何でも亡き轟氏の魂はあの劇場に残っているに違いないのだから、今日の芝居を中止しないのが、せめてもの孝行の一つで
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