すと、眼を真赤にして云っていたがね。呉羽嬢は……」
「今何を演《や》っているのですか」
「何を演《や》っているか知らんが……アッ。そうそう。大森署へ切符を置いて行きおったっけ……新四谷怪談とか云っていたが……」
「ヘエ。そうするとアトはその犯人を捕まえるダケですね」
「そうだよ。相当スゴイ奴に違いないよ」
「そうすると疑問として残るのは……」
「疑問なんか残らんじゃないか」
「イヤ。これは僕が勝手に考えるんですがね。第一は被害者の轟九蔵氏が、その犯人を迎え入れた心理状態……」
「それは犯人を取調べればわかるじゃろ」
「第二が、その屍体に現われた無抵抗、驚愕の状態……」
「無抵抗とは云いはしないよ」
「けれども事実上、無抵抗だった事はわかっているでしょう。そんな場合には無抵抗の表情と驚愕の表情とは同時に表現され得るものですし、同じ意味にも取れない事はないでしょう。のみならず、そうした被害者の犯人に対する気持は机の曳出《ひきだし》に在ったピストルを取出さずに、犯人を迎え入れた事実によって、二重三重に裏書きされていやしませんか。犯人が被害者に対して、殺意を持っていなかった事を、被害者自身も洞察して、信じ切っていたらしい事も想像され得るじゃないですか」
「ううむ。そういえばソウ考えられん事もない。ナカナカ君は頭がええんだな」
「……そ……そんな訳じゃないですが……それから事件当夜の二時頃に主人の部屋に居た呉羽嬢の行動に関する秘密……」
「……あ……そいつはドウモ当てにならんよ。何度も云う通り市田イチ子の陳述がアイマイじゃから……」
「アトからアイマイになったんでしょう。ですから一層的確な意味になりはしませんか」
「中々手厳しいね。僕が訊問されとるようだ」
「ハハハ。いや。そんな訳じゃないですが……アトは轟九蔵氏の絶命時間の推測です。昨夜何時頃という……」
「ハハハ。二時以後だったら断然、呉羽嬢をフン縛るつもりかね……君は……」
「その方が間違いないと思います」
 そう云う文月巡査の顔からは血の気がなくなっていた。背筋へ氷を当てられたような笑い顔をしながら三本目のMCCへわななくマッチを近付けた。そうした昂奮を気持よさそうに眺めやった猪村巡査は、毛ムクジャラの両手をノウノウと後頭部に廻した。
「ところがその絶命の時間がモウわかっているんだよ。サッキ本署へ電話をかけてみたら、一時間ばかり前に大学から通知が来たそうだ」
「ナ……何時頃ですか」
「今朝《けさ》の三時半、乃至、四時半頃だというんだ」
 文月巡査の手からマッチと煙草が落ちた。猪村巡査の顔を凝視したまま唇をわななかした。
「ハハハ。よっぽど驚いたらしいね。ハハハ。小説や新聞の読者に云わせたら、女優を縛った方が劇的で面白いかも知れんがね。そうは行かんよ。犯人と轟九蔵氏との間には、何か知らん重大な秘密がある。だから一度出て行った犯人は轟九蔵氏の密告を恐れて引返し、推定の時刻に兇行を遂げて立去ったものとしたらドウだい。探偵小説にならんかね。ハハハハハ……」
 笑殺された文月巡査は、いかにも不満そうに落ちた煙草を拾い上げると、腕を組んで椅子の中に沈んだ。眼の前の空気を凝視して、夢を見るようにつぶやいた。
(探偵小説……小説としても……事実としても……何だか間違《まちがい》ダラケのような危なっかしい気がしますなあ。ホントの犯人は別に在りそうな気が……)
「困るなあ。君にも……何でもカンでも迷宮みたいに事情がコンガラガッていなくちゃ満足が出来ない性分だね。犯人が意外のところに居なくちゃ納まらないんだね君は……」
「ええ。どうせ僕はきょう非番ですから、実地見学のつもりでお願いして、ここに連れて来て頂いたんですから、あらゆる角度に視角を置いてユックリ考えてみたいと思いまして……」
「考え過ぎるよ君あ……事実はモット簡単なんだよ」
「ドウ簡単なんですか」
「犯人はモウ泥を吐いているんだよ」
「ゲッ。捕まったんですかモウ……犯人が……」
「知らなかったかね」
「早いんですねえ……ステキに……」
「ハハハ。驚いたかい。……とはいうものの僕も少々驚いたがね。きょうの正午過ぎに上野駅で捕まったよ。大工道具を担いでいたそうだが、どうも挙動が怪しいというので、押えようとすると大工道具を投棄てるが早いか驀地《まっしぐら》に構内へ逃込んだ。そいつが又驚くべき快速で、グングン引離して行くうちに、なおも追い迫って来る連中を撒くために走り込んで来た上り列車の前を、快足を利用して飛び抜けようとしたハズミに、片足が機関車のライフガードに引っかかって折れてしまった。運の悪い奴さ。まだ非常手配《ズキ》がまわっていない中《うち》だからね。呉羽嬢の御祈祷が利いたのかも知れないがね……ハハハ……。そこへ大森署から電話をかけた司法主任が
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