主人の居間の扉《ドア》がガチャリと開《あ》いた音がしたので、ハッと眼を醒まして無意識の裡《うち》に起き上り、鍵穴からソッと覗いてみると、いつも寝間着姿で仕事をしていると聞いていた主人が、チャント洋服を着ている。今しがた帰って来て、イチ子自身がホコリを払ってやった時の通りの黒いモーニングと白チョッキと荒い縞のズボンを穿いている……つまり今朝《けさ》の屍体が着ていたのと同じものだね。のみならず主人の背後の扉《ドア》の蔭からチラリと動いた赤いものが見えた。大きな蛇が赤い舌を出した恰好に見えたのでギョッとして、頭から布団を冠ってしまったが、あとから考えると、それはお嬢様の振袖と、絽《ろ》の襦袢《じゅばん》の袖だったに違いないと云うんだ。……何でもその時に女中部屋の時計がコチーンコチーンと二時を打つのを夜着《よぎ》の中で聞いたというがね」
「ははあ……重大な暗示《ヒント》ですなあ。それは……」
「暗示《ヒント》? 何の暗示だというのだね」
「イヤ。別に暗示《ヒント》という訳では[#底本では「は」が脱落]ありませんが、しかし、それはソンナに遅くまで、轟九蔵氏と天川呉羽嬢があの事務室に居た証拠として考えてはいけないでしょうか」
「そうすると君は天川呉羽が轟九蔵を殺したというのかね。それだけの事実で……」
「イヤ。そんな怪談じみた想像説は、この場合成立しませんが、ツイ今しがた参りました奇妙なゴムチューブの足跡が、呉羽嬢と九蔵氏が一所《いっしょ》に居った時に這入って来たものか、それとも相前後して出入りしたものとすれば、ドチラが後か先かという事が、この事件を解決する重大な鍵となって来ましょう」
「ウーム。自然そういう事になるね」
「ところがその足跡の主が這入って来て、出て行ったのが、お話の通り二時以前としますかね。雨が降り出してから帰った形跡はないのでしょう」
「ウム。ない」
「それから呉羽嬢が居たのが二時頃としますとドチラにしても二時以後は呉羽嬢がタッタ一人、轟氏の傍に居た事になります。そうすると二時頃までピンピンしていた轟氏を殺したものは絶対に呉羽嬢以外には……」
「アハハハハ。イヤ。名探偵名探偵。その通りその通り。寸分間違いない話だが……そこが探偵小説と実際と違うところなんだよ。つまり君がアンマリ名探偵過ぎるんだ」
「……名探偵過ぎるって……」
「つまり君はアンマリ考え過ぎているんだよ。犯人の目星はモウ付いているんだからね。寝呆《ねぼ》けた小娘の眼で見た事なんか相手にせんでモット常識的に考えんとイカン」
「常識的と云いますと……」
「まあ聞き給え。こうなんだ。呉羽嬢は無論そんな真夜中に起きて、そんなに盛装なんかして九蔵氏の部屋に這入った覚えなぞ、今までに一度もないと云い張るんだ」
「それあそうでしょう」
「女中の市田イチ子の奴も、今になって考えてみますと何だか、自分の眼が信じられないような気がします。あれは私がトロトロした間《ま》に見た夢なのかも知れません……なんかとアイマイな事を云い出しやがるし……」
「云うかも知れませんね。そんな事をウッカリ証言したら、アトで呉羽嬢に何をされるか解りませんからね」
「君。想像は禁物だよ。チャンとした拠点《よりどころ》のある証言を基礎として考えなくちゃ……」
「モウ、それだけですか。変った事は……」
「……アッ……それから今一つチョット変った事がある。何でもない事だが、君一流の想像を複雑に[#底本では「に」が脱落]させる材料には持って来いだろう。ほかでもない……今朝《けさ》、呉羽嬢の起きるのが約一時間ばかり遅れたんだそうだ。これも市田イチ子の証言だがね」
「ヘエ。いよいよ以て聞捨てになりませんね」
「ウン。平生《いつも》は女中に起されなくとも、キッチリ九時には起きて来た呉羽嬢が、今朝《けさ》に限って九時半頃まで起きないので、ヨネとイチの二人の女中が顔を見合わせたそうだ。どうかしたんじゃないかというので二人がかりで起しに行ってみたらグーグー寝ている気はいがする。それを猛烈に戸をたたいたり、叫んだりしてヤット起したりしたら、不承不承に起きて来た。真白い羽二重《はぶたえ》のパジャマを引っかけながら、どうも昨夜、催眠剤《おくすり》を服《の》み過ぎたらしいと云い云い湯に這入ったというんだ」
「ヘエ……わからないなあ」
と云ううちに文月巡査は、眼前《めのまえ》の机《テーブル》の上に身体《からだ》を投げかけて両肱を突いた。シッカリと頭を抱え込むと、溜息と一所に云った。
「スッカリわからなくなっちゃった」
「何がわからんチューのか……ええ?」
「……もし、それが事実なら、やっぱり呉羽嬢が九蔵氏を殺したのじゃない。不思議な足跡の主……つまり九蔵氏を脅迫した奴が殺したんだ」
「ホオ。なかなか明察だね。どうしてわかる」
若
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