てから着かえはしないのですか……普通の女のように……」
「ハハハハ。ナカナカ君も細かいのう。探偵小説の愛読者だけに妙なところへ気が付くのう。そこまでは未だ調べが届いておらん」
「残念ですなあ。そこが一番カンジン、カナメのところかも知れないのに……」
「まあ話の先を聞き給え。それから十時頃に、その呉羽嬢が浴室を出ると、女中が主人の轟九蔵を起しに行くが、コイツが又一通りならぬ朝寝坊でナカナカ起きない。それをヤット起して湯に入れると間もなく朝飯《あさはん》になる。それから十二時か一時頃になって支配人の笠圭之介が遣って来て三人寄って紅茶か、ホット・レモンを飲みながら業務上の打合わせをする。時には三人で大議論をオッ初める事もあるが大抵のことは呉羽嬢の主張が通るらしい」
「その支配人の笠という男はドンナ人間ですか」
「僕に負けんくらい巨大《おおき》な赭顔《あからがお》の、脂《あぶら》の乗り切った精力的な男だ。コイツも独身という話じゃが」
「何だかヤヤコシイようですね。呉服橋劇場の首脳部の三人が揃いも揃って独身となると……」
「ところがこの笠という男は有名な遊び屋でね。それも頗《すこぶ》る低級に属しとる。つまらない女ばかり引っかけまわって、この大森の砂風呂なんかによく来るので、自然吾々の仲間にも顔が通っている。臨検してみると「ヤア君か」といったアンバイでね。ハハハ。話すと面白い男だよ。誰でも初めて劇場で合うとこの男を劇場主の轟と間違える位、立派な風采じゃがね。そいつが来てその日の事務の打合わせが済むと、一時か二時頃から三人同伴で劇場や、新聞社に行く事もあれば、別々に行く事もある。帰って来るのは大抵夜中の十二時前後で、その時も三人別々だったり一緒じゃったりするが、早い奴から湯に這入って軽い夕食を摂る。笠支配人はいつも麦酒《ビール》を飲んで少々ポッとしたところで自動車を呼んで丸の内のアパートへ帰る……かドウか、わからないがね。残った二人の中《うち》で主人の轟は事務室の片隅の寝台へ寝る。呉羽嬢は二階の別室に寝るのじゃが、その時に呉羽嬢は寝室の鍵をやはりガッチリと掛けて、その上から今一つ差込の閂《かんぬき》まで卸すとモウ誰が来ても開けない。もっとも寝がけに睡眠剤を服《の》むらしいがね」
「轟氏の方は……」
「呉羽嬢が「おやすみ」を云うたアトで三十分か一時間ぐらい手紙を書いたり何か仕事をするのが習慣になっとるらしいが、その時には必ず浴衣《ゆかた》に着換えている。そうしてこれも何か知らん薬を服《の》んでから寝るらしいがね」
「当日も変った事はなかったんですね」
「イヤ。あったんだ。しかもタッタ一つ奇妙な事があったんだ。少々神秘的なことが……」
「ヘエ。神秘的と云いますと……」
「それが面白いのだ。この家の女中はズット以前……この家が建った当時から二人きりに定《き》まっている。こう見えてもこの家は案外広くないのだ。部屋らしい部屋はタッタ四|室《ま》しかない上に、万事がステキに便利に出来ているからね……ところで一番古く、建った当時から居るのが今云うた松井ヨネ子という二十六になる逞ましい肉体美の醜女《オッペシャン》だ。コイツが田舎出の働き者で、家の内外の掃除から、花畠の世話まで少々荒っぽいが一人で片付ける。しかも轟九蔵と天川呉羽の性生活について非常な興味を持っているらしく、そいつがわかるまでは断然お暇を貰わないつもりですとか何とか、吾々の前で公々然と陳述する位、痛快な女なんだ。何でもどこか極めて風俗の悪い村から来ているらしく、万事心得た面構えをしているが、しかし遺憾ながら、まだ二人の関係については突詰めた事を一つも掴んでいないので、ああした年頃の未婚の女にあり勝ちな悩みをこの問題一つに集中しているらしいんだね。この問題に限ってチョット突《つっ》つくと直ぐに止め度もなくペラペラと喋舌《しゃべ》り出しやがるんだ。どう見ても普通の親娘《おやこ》じゃありません……と熱烈に主張するんだ」
「なるほど面白いですね」
「ところが今一人居る市田イチ子というのは、やはり田舎からのポット出だが、今年十八になったばっかり。つまりそうした好奇心の一番強い真盛りの娘ッ子で、やっと一昨日《おとつい》来たばっかりのところへ、先輩のヨネ子からこの話を散々聞かされた訳だね。それから呉羽嬢の初のお目見得をしてみると、あんまり美しいのでビックリした拍子に呉羽嬢の姿がブロマイドみたいに眼の底に沁[#底本では「泌」と誤記]《し》み付いてしまって、日が暮れたら怖くて外へ出られなくなった。夜具を引っ冠ると眼の前にチラ付いてスッカリ冴えてしまった……」
「アハハハ。形容が巧いですね」
「イヤ。笑いごとじゃない。その娘が自身に白状したんだ。ところへ昨夜の事、女中部屋の扉《ドア》の真向いに当る廊下の突当りで、
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