う……と云って、逃げるように警視庁を飛び出して来たのがツイ二時間ばかり前なんだ。それから危ないと思ってここに来て、楽屋裏に隠れていたんだ。ウッカリ捕まると、芝居が見られなくなると思ったからね」
「まあ。それでヤット訳がわかったわ。あのね、警察の人にはドンナ事があっても呉羽さんから聞いたって仰言っちゃ駄目よ」
「勿論さ。轟さんから直接に聞いた事にするつもりだが、それでも今夜、この芝居を見たら直ぐにも大森署へ行ってみなくちゃならん。犯人にも会わなくちゃなるまいかとも思っているんだが、とにかくこの芝居の演出を見た上でないと、カイモク方針が立たないんだ」
「どうして犯人がソンナにこの芝居を怖がるのでしょう。どうせ死刑になる覚悟なら、それより怖いものはない筈でしょうに……」
「さあ。ソンナ事はむろん、わからないね」
「それにしても今夜の場内《いり》スゴイわね。この中に生蕃小僧の人気が混っていると思うと、妾何だか気味が悪いわ。みんな死刑を見に来たような顔ばかり並んでいるようで……」
「ウン。これが又、僕の心配の一つなんだ。あの広告じゃ、たしかにインチキの誇大広告だからね。第一ポオの原作っていうのからして大ヨタなんだから……僕が夢にも思い付かなかった作り事なんだからね。今夜の演出がわかったらキット興行差止《チリンチリン》を喰うにきまっている」
「アラ。今夜のお芝居も駄目になるの」
「イヤ。そんな事はないだろう。ドンナに無茶な芝居を演《や》ったって、思想や風教や政治向に関係してない限り、その場で臨席の警官から差止められるような事は、今までに一度も例がないんだからね……問題は明日《あす》の芝居なんだが」
「呉羽さんは今晩一晩でウント売上げようと思っていらっしゃるんじゃないの。罰金覚悟で……」
「そうかも知れんね」
「そんならトテモ凄い興行師じゃないの」
「ウン。しかも、そればかりじゃないんだよ。あの女《ひと》は世界に類例のない偉大な女優であると同時に、劇作と犯罪批評の天才だよ。……同時に悪魔派の詩人かも知れないがね」
「あたし何だかドキドキして来たわ」
「暑いからだろう」
「イイエ。呉羽さんの天才が怖くなって来たのよ。ドンナ演出をなさるかと思って……」
 こんなヒソヒソ話が進行しているのは一階正面中央の特等席であった。旅疲れのままで、一層、醜くくなった職工風の江馬兆策と、青白いワンピースに、タスカンのベレー帽をチョッと傾けた、女学生みたいに初々《ういうい》しい美鳥の姿は、世にも微笑ましいコントラストを作っているのであった。

 呉服橋劇場内は、文字通りの殺人的大入であった。あまりの大入りなので観客席の整理が不可能になったらしい。外廊《そとろう》から舞台の直前まで身動き出来ない鮨詰《すしづめ》で、一階から三階までの窓を全部|明放《あけはな》し、煽風機、通風機を総動員にしても満場の扇《うちわ》の動きは止まらないのに、切符売場の外ではまだワアワアと押問答の声が騒いでいるのであった。
 定刻の六時に五分前になると場内から拍手の洪水が狂騰した。その真正面の幕前の中央に、若い背の高い燕尾服の男が出て来て、恭《うやうや》しく観客に一礼して後《のち》、何事か喋舌《しゃべ》り出したからであった。それも最初の間はさながらにこうした未曾有《みぞう》の満員状態を面白がっているような盲目的な拍手に蔽われて、言葉がよく聞き取れなかったが、その中《うち》に群集のドヨメキが静まると、やがて若々しい朗らかな声が隅々までハッキリと反響し初めた。
「あら。アレ寺本さんじゃない?」
「ウム。以前《もと》はロッキー専属のテノルで相当のところだったよ」
「いい声ね……」
「ええ。ところで早速では御座いますが、今晩のお芝居の興味の中心と申しますのは、広告にも掲載致しました通り、前の当劇場主、故、轟九蔵氏を殺害致しました犯人の、まことに古今に類例のない恐ろしい心境を脚色し、的確にして且つ、意外千万な真犯人を指摘致しますところに在りますので、特に、最後の一幕と申しまするのは、このたび新しい当劇場主と相成りました天川呉羽嬢の独白、独演と相成っているので御座います。ふつつかながら斯界《しかい》に於きまして、仏蘭西《フランス》のパオロ・オデロイン夫人と相並んで、邪妖探偵劇の二|明星《みょうじょう》とキワメを附けられております天才女優、天川呉羽嬢が、その最後の独白、独演において、どのような物凄い演出を行い、この二重心臓の舞台面を、どのように戦慄的なクライマクスにまで導きますかという筋書は、遺憾ながら当の本人の天川呉羽嬢以外に、作者、座員一同の誰もが一人として存じておりませぬ事を、前以てお含みまでに申上げておきます。……すなわち今晩御来場の皆様は、過般、満都の諸新聞に報道されました探偵劇王、轟氏の遭難の
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