ているんですがね」
「現在《いま》でもそうかね」
「……………」
「そんなら……宜《え》えじゃろ。中学生にでもわかる話じゃろ。あのS・O・S小僧が颱風《たいふう》や、竜巻《スパウト》や、暗礁《リーフ》をこの船の前途《コース》に招寄《よびよ》せる魔力を持っちょる事が、合理的に証明出来るチウならタッタ今でもあの小僧を降す」
「……………」
「元来、物理、化学で固まった地球の表面を、物理、化学で固めた船で走るんじゃろ。それが信じられん奴は……君や僕が運用する数理計算が当てにならんナンテいう奴は、最初《はな》から船に乗らんが宜《え》え」
俺はギューと参ってしまった。一言《いちごん》ない……面目《めんぼく》ない……と思って残念ながら頭を下げた。
「ムフムフ。シッカリし給《たま》え。オイオイ伊那一郎……S・O・S……ハハハ。ここだここだ……上《あが》っち来い」
船長《おやじ》を探すらしく巨大なバナナを抱えて船長室を駈出《かけだ》して行く青服の少年《こども》を船長《おやじ》は手招きして呼び上げた。俺が買って来た西蔵《チベット》紅茶の箱を、鼻の先に突付《つきつ》けて命令した。
「これを船長室《ケビン》へ持って行《い》て蒸留水で入れちくれい。地獄の親方と一所に飲むけにナ」
「CAPTAIN」と真鍮札《しんちゅうふだ》を打った扉《ドア》を開くと強烈な酸類、アルカリ類、オゾン、アルコオルの異臭《におい》がムラムラと顔を撲《う》つ。その中に厚硝子張《あつガラスばり》、樫材《オークざい》の固定薬品棚、書類、ビーカー、レトルト、精巧な金工器具、銅板、鉛板、亜鉛板、各種の針金、酸水素|瓦斯《ガス》筒、電気|鎔接《ようせつ》機、天秤《てんびん》、バロメータなんぞが歯医者か理髪店の片隅みたいにゴチャゴチャと重なり合っている……というのがこのアラスカ丸の船長室なんだ。その片隅の八日《ようか》巻の時計の下の折釘《おれくぎ》に、墨西哥《メキシコ》かケンタッキーの山奥あたりにしかないようなスバらしく長い、物凄《ものすご》い銀色の拳銃が二|挺《ちょう》、十数発の実弾を頬張《ほおば》ったまま並んで引っかかっているのだ。
話は脱線するがこのアラスカ丸の船長はむろん独身生活者《ひとりもの》で、女も酒も嫌いなんだ。上陸なんか滅多《めった》にしないんだ。その代りに応用化学の本家本元の仏蘭西《フランス》の大学で、理学博士の学位を取っている一種の発明狂と来ているんだ。持っているパテントの数《すう》でも十や二十じゃ利かないだろう。みんなこの実験室でヒネリ出したっていうんだから豪勢なもんだろう。去年の冬だっけが、そんなパテントの権利も、巨万の財産も海員|擁済会《ようさいかい》に寄附して、胃癌《いがん》で死んじゃったが、惜しい人間だったよ。……その時分……昭和二年頃には、小型な、軽い、無尽蔵に強力な乾蓄電池の製作に夢中になっていたっけ。世界中の動力を蓄電池の一点張りにするてんで、誠に結構な話だが、その実験をするたんびに、船中の電動力を吸い集めて、電燈を薄暗くしちまったりヒューズを飛ばしたりするのには降参させられたよ。おまけに舶来の絹巻線《きぬまきせん》が気に入らないと云って、自分で器械を作って絹巻線を製作しては切り棄《す》て、作っては切り棄てる事二万|哩《マイル》。その仕事に行き詰まると、今のピストルを二挺持って上甲板《じょうかんぱん》に駈《か》け上る。主檣《メーンマスト》に群がる軍艦鳥を両手でパンパンと狙《ねら》い撃《うち》にして「アハハハハ」と高笑いしながら、落ちて来るのを見向きもしないでスタスタと実験室に引返《ひきかえ》すという変りようだからトテモ吾々《われわれ》凡俗には寄付《よりつ》けない。恐ろしく小面倒な動力の計算書なんかを一週間がかりで書き上げて甲板《デッキ》に持って行くと、「アリガトウ」と云って、見る片端《かたはし》から一枚一枚海の風に飛ばしてしまう。……ナアニ、タッタ一目でみんな頭に入れちゃうんだ。ズット後《のち》になって船体検査なんかが来ると自分で機械の側へ立って、何百という数字を暗記《そら》でペラペラ並べるんだから、計算した本人が舌を捲《ま》いちまう。……そうかと思うと独逸《ドイツ》の潜航艇やエムデンの出現時間と、場所をギッシリ書き入れた海図を睨《にら》んで「モウわかった。彼奴等《きゃつら》の根拠地と、通信網と、速力がわかった」と云うとその海図をクシャクシャにして海へ飛ばす。それから毛唐《けとう》の嫌う金曜日金曜日に汽笛を鳴らして、到る処の港々を震駭《しんがい》させながら出帆《しゅっぱん》する、倫敦《ロンドン》から一気に新嘉坡《シンガポール》まで、大手を振って帰って来る位の離れ業《わざ》は平気の平左なんだから、到底|吾々《われわれ》のアタマでは計り知る事の出来ないアタマだよ。
そうした一種の鬼気《すごみ》を含んだ船長の顔と、部屋の隅でバナナを切っている伊那少年の横顔を見比《みくら》べると、まるで北極と南洋ほど感じが違う。
毬栗《いがぐり》の丸い恰好《かっこう》のいい頭が、若い比丘尼《びくに》みたいに青々としている。皮膚の色は近頃流行のオリーブって奴だろう。眼の縁《ふち》と頬《ほお》がホンノリして唇が苺《いちご》みたいだ。睫毛《まつげ》の濃い、張りのある二重瞼《ふたえまぶた》、青々と長い三日月|眉《まゆ》、スッキリした白い鼻筋、紅《あか》い耳朶《みみたぼ》の背後《うしろ》から肩へ流れるキャベツ色の襟筋《えりすじ》が、女のように色っぽいんだ。青地に金モールの給仕服《ユニフォーム》が身体《からだ》にピッタリと吸付《すいつ》いているが、振袖《ふりそで》を着せたら、お化粧をしなくとも坊主頭のまんま、生娘《きむすめ》に見えるだろう。なるほど毛唐《けとう》が抱いてみたがる筈だ……と思っているトタンに、白いバナナの皿を捧げた小僧がクルリとこっち向きになって頭を一つ下げた。俺の顔を、憐《あわ》れみを乞《こ》うようにソッと見上げた。それから恋人に出会った少女みたいな桃色の、悩ましげな微笑を一つニッコリとして見せたもんだ。
俺はゾッとしてしまったよ。……まったく……魔物らしい妖気が、小僧の背後《うしろ》の暗闇《くらやみ》から襲いかかって来たように思ったもんだよ。
俺は紅茶もバナナも良《い》い加減にして故郷の地獄……機関室へ帰って来た。今にも「オホホホ」と笑い出しそうな人形じみた小僧の、変態的な愛嬌顔《あいきょうづら》と向い合っているよりも、機関室の連中の真黒な、猛獣|面《づら》と睨《にら》み合っている方が、ドレ位気が楽だか知れないと思って……。
ところが機関室に帰ってみると船員の伊那少年に対する憎しみが……否《いな》、恐怖が、予想外に酷《ひど》いのに驚いた。船長《おやじ》が是非ともあの小僧を乗組ませると云うんならこっちでも量見がある……というので大変な鼻息だ。水夫《デッキ》連中は沖へ出次第に小僧を餌にして鱶《ふか》を釣ると云っているそうだし、機関室の連中は汽鑵《ボイラ》に突込《つっこ》んで石炭の足しにするんだと云ってフウフウ云っている。海員なんてものはコンナ事になると妙に調子付いて面白半分にドンナ無茶でも遣《や》りかねないから困るがね。現に水夫の中でも兄い分の「向《むこ》う疵《きず》の兼《かね》」がわざわざ鉄|梯子《ばしご》を降りて、俺に談判を捻《ね》じ込んで来た位だ。
「向う疵の兼」というのは恐ろしい出歯《でば》だから一名「出歯兼《でばかね》」ともいう。クリクリ坊主の額《おでこ》が脳天から二つに割れて、又|喰付《くいつ》き合った創痕《きずあと》が、眉《まゆ》の間へグッと切れ込んでいるんだ。そいつが出刃包丁《でばぼうちょう》を啣《くわ》えた女の生首《なまくび》の刺青《ほりもの》の上に、俺達の太股《もも》ぐらいある真黒な腕を組んで、俺の寝台《ねだい》にドッカリと腰を卸《おろ》して出《で》ッ歯《ぱ》をグッと剥《む》き出したもんだ。
「チョットお邪魔アしますが親方ア。今、船長《おやじ》の処《とこ》へ行って来たんでがしょう。親方ア」
「ウン。行って来たよ。それがどうしたい」
「すみませんが船長《おやじ》があの小僧の事を何と云ってたか聞かしておくんなさい。……わっしゃ親方が船長に何とか云ったらしいんで、水夫《デッキ》連中の代表になって、船長《おやじ》の云い草を聞かしてもらいに来たんですが」
「アハハハ。それあ御苦労だが、何とも云わなかったよ」
「お前さん何にも船長《おやじ》に云わなかったんけエ」
「ウン。ちょっと云うには云ったがね。何も返事をしなかったんだ。船長《おやじ》は……」
「ヘエー。何も返事をしねえ」
「ウン。いつもああなんだからな船長《おやじ》は……」
「あの小僧を大事《でえじ》にしてくれとも何とも……親方に頼まなかったんけえ」
「馬鹿。頼まれたって引受けるもんか」
「エムプレス・チャイナへ面当《つらあ》てにした事でもねえんだな」
「むろんないよ。船長《おやじ》はあの小僧を、皆《みんな》が寄って集《たか》って怖がるのが、気に入らないらしいんだ」
「よしッ。わかったッ。そんで船長《おやじ》の了簡《りょうけん》がわかったッ」
「馬鹿な。何を云うんだ。船長《おやじ》だって何もお前達の気持を踏み付けて、あの小僧を可愛がろうってえ了簡じゃないよ。今にわかるよ」
「インニャ。何も船長《おやじ》を悪く云うんじゃねえんでがす。此船《うち》の船長《おやじ》と来た日にゃ海の上の神様なんで、万に一つも間違いがあろうたあ思わねえんでがすが、癪《しゃく》に障《さわ》るのはあの小僧でがす。……手前の不吉《いや》な前科《こうら》も知らねえでノメノメとこの船へ押しかけて来やがったのが癪に触《さわ》るんで……遠慮しやがるのが当前《あたりまえ》だのに……ねえ……親方……」
「それあそうだ。自分の過去を考えたら、遠慮するのが常識的だが、しかし、そこは子供だからなあ。何も、お前達の顔を潰《つぶ》す気で乗った訳じゃなかろう」
「顔は潰れねえでも、船が潰れりゃ、おんなじ事でさあ」
「まあまあそう云うなよ。俺に任せとけ」
「折角だがお任かせ出来ねえね。この向う疵《きず》は承知しても他《はた》の奴等《やつら》が承知出来ねえ。可哀相《かわいそう》と思うんなら早くあの小僧を卸《おろ》してやっておくんなさい。面《つら》を見ても胸糞《むなくそ》が悪いから」
「アッハッハッ。恐ろしく担ぐじゃねえか」
「担ぐんじゃねえよ。親方。本気で云うんだ。この船がこの桟橋を離れたら、あの小僧の生命《いのち》がねえ事ばっかりは間違いねえんで……だから云うんだ」
「よしよし。俺が引受けた」
「ヘエ。どう引受けるんで……」
「お前達の顔も潰れず、船も潰れなかったら文句はあるめえ。つまりあの小僧の生命《いのち》を俺が預かるんだ。船長が飼っているものを、お前達《めえたち》が勝手にタタキ殺すってのは穏やかじゃねえからナ。犬でも猫でも……」
「ヘエ。そんなもんですかね。ヘエ。成る程。親方がそこまで云うんなら私等《あっしら》あ手を引きましょうが、しかし機関室《こっち》の兄貴達に、先に手を出されたら承知しませんよ。モトモトあの小僧は甲板組《デッキ》の者《もん》ですからね」
「わかってるよ。それ位の事《こた》あ」
「ありがとうゴンス。出娑婆《でしゃば》った口を利いて済みません。兄貴達も容赦して下せえ」
と会釈をして兼は甲板へ帰った。生命《いのち》知らずの兇状持《きょうじょうもち》ばかりを拾い込んでいる機関部へ来て、これだけの文句を並べ得る水夫は兼の外には居ない。現に機関部の連中は、私の寝室《へや》の入口一パイに立塞《たちふさ》がって、二人の談判に耳を傾けていたが……むろんデッキ野郎の癖に、わざわざ親方の私の処へ押しかけて来る兼の利いた風な態度を憎んで、今にも飛びかかりそうな眼付《めつき》をしながら扉《ドア》の蔭に犇《ひしめ》いていたものであるが、兼が「兄貴達も容赦してくれ」と云って頭をグッと下げた会釈ぶりが気に入ったらしく、皆顔色を柔らげて道を
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夢野 久作 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング