もんだから天測が出来ねえ」
「位置も方角もわからねえんだな」
「わからねえがモウ大丈夫だよ。サッキ女帝星座《カシオペヤ》が、ちょうどそこいらと思う近処《きんじょ》へウッスリ見えたからな。すぐに曇ったようだが、モウこっちのもんだよ」
「アハハハ。S・O・Sはどうしたい」
「どっかへフッ飛んじゃったい。船長《おやじ》は晩香坡《バンクーバ》から鮭《さけ》と蟹《かに》を積んで桑港《シスコ》から布哇《ハワイ》へ廻わって帰るんだってニコニコしてるぜ」
「安心したア。お休みい……」
「布哇《ハワイ》でクリスマスだよオオ――だ……」
「勝手にしやがれエエ……エ……だ……」
「アハアハアハアハアハ……」
ところがこうした愉快な会話が、霧が晴れると同時にグングン裏切られて行ったから不思議であった。
夜が明けて、霧が晴れてから、久し振りに輝き出した太陽の下を見ると、船はたしかに計算より遅れている。しかも航路をズッと北に取り過ぎて、晩香坡《バンクーバ》とは全然方角違いのアドミラルチー湾に深入りして雪を被《かむ》った聖《セント》エリアスの岩山と、フェア・ウェザー山の中間にガッチリと船首を固定さしているのには呆《あき》れ返った。……船長と運転手の計算も、又は俺の腹加減までもが、ガラリと外《はず》れてしまっていたのだ。
そればかりではない。
船に乗ってアラスカ近海へ廻わった経験のある人間でなければ、あの近海の波の大きさと、恐ろしさはチョット見当が付きかねるだろう。こんな処でイクラ法螺《ほら》を吹いても、あの波濤《なみ》のスバラシサばっかりは説明が出来ないと思うが、何もかも無い。これが波かと思う紺青色《こんじょういろ》の大山脈が、海抜五千|米突《メートル》の聖《セント》エリアス山脈を打ち越す勢いで、青い青い澄み切った空の下を涯《は》てしもなく重なり合いながら押し寄せて来る。アラスカ丸は七千|噸《トン》だから荷物船《カーゴボート》では第一級の大型だったが、たとい七千噸が七万噸でもあの波に引っかかったら木《こ》っ葉《ぱ》も同然だ。
一つの波の絶頂に乗上げると、岩と氷河で固めた恐ろしい恰好《かっこう》の聖《セント》エリアスが直ぐ鼻の先に浮き上る。文句なしに手が届きそうに見える。これは、空気が徹底的に乾燥しているから、そんなに近くに見えるんだが、水蒸気の多い日本から行くと特別にソンナ感じがするんだ。望遠鏡で覗《のぞ》いてもチットも霞《かす》んで見えない。山腹を這《は》う蟻《あり》まで見えやしまいかと思うくらいハッキリと岩の角々が太陽に輝いている……と思う間に、その大山脈の絶頂から真逆落《まっさかおと》しに七千噸の巨体が黒煙《くろけむり》を棚引《たなび》かせて辷《すべ》り落ちる。スキーの感じとソックリだね。高い高い波の横っ腹に引き残して来る推進器《スクリュウ》の泡をジイッと振り返っていると、七千噸の船体が千噸ぐらいにしか感じられなくなって来る。
……と思ううちに、やがて谷底へ落ち付いた一|刹那《せつな》、次の波の横っ腹に艦首《トップ》を突込んでドンイイインと七噸から十噸ぐらいの波に艦首《トップ》の甲板《デッキ》をタタキ付けられる。グーンと沈んで甲板をザアザアザアと洗われながら次の大山脈のドテッ腹へ潜《もぐ》り込む。何《なん》しろ船脚《ふなあし》がギッシリと重いのだから一度、大きな波《やつ》にたたかれると容易に浮き上らない。船室《ケビン》という船室《ケビン》の窓が、青い、水族館みたいな波の底の光線に鎖《とざ》されたまま、堅板《パーテカル》や、内竜骨《キールソン》が、水圧でもって……キイッ……キイッ……キシキシキシキシと鳴るのを聞いていると、それだけの水圧を勘定に入れた、材料強弱《ストレングス・オブ・マテリヤルス》の公式一点張りで出来上っている船体だとわかり切っていても決していい心持ちはしない。そのうちにヤット波の絶頂まで登り詰めてホットしたと思う束の間に、又もスクリュウを一シキリ空転さして、潮煙《しおけむり》を捲立《まきた》てながら、文字通り千仭《せんじん》の谷底へ真逆落しだ。これを一日のうちに何千回か何万回か繰返すと、機関室の寝床《ベッド》にジッと寝転んでいても、ヘトヘトに疲れて来る。
「オイオイ。機関長か……」
船長室から電話がかかる。
「僕です。何か用ですか」
「ウン。もっとスピードが出せまいか」
「出せますが、何故《なぜ》ですか」
「船がチットも進まんチウて一等運転手《チーフメート》が訴えて来《き》おるんだ」
「今十六|節《ノット》出ているんですがね。義勇艦隊のスピードですぜ」
「馬鹿。出せと云ったら出せ」
「ドレ位ですか」
「十八ばっか出しちくれい」
「最大限《フル》ですね」
「ウン。石炭《すみ》は在るかな」
「まだ在ります。全速力《フル》で四五
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