ったんだ。まだズキズキするが、右手でなくてよかった」
 と言って涙ぐんでいる。
 そこへ当の芋倉長江画伯が、死人のような青い顔に宗匠頭巾、灰色の十徳という扮装で茫々然と出社して来た。見ると向う歯が二本、根元からポッキリ折れて妙な淋しい顔になっている。私は驚いて、
「ずいぶん[#「ずいぶん」は底本では「ずいぶく」]非道く啖《く》い付いたもんだね」
 と慰めて? 遣ったら、長江画伯イヨイヨ茫然とした淋しい顔になって眼をパチパチさせた。
「イヤ。これはいつ打たれたのか、わからないのです」
 と謙遜? するのを横合いから国原が引き取った。
「ウン。それは僕が知っとる。僕が君を投げ飛ばして遣ったら、君はイヨイヨ嬉しいと言って横に立っていた電信柱に喰い付きよった。その時に柱に打ち付けて在る針金に前歯が引っかかって折れたんだ。僕は君の熱心なのに感心して見ておったよ」
 という話。
 トタンに私は酒が飲みたくなった。いまだ嘗て電信柱に啖い付くほど嬉しい眼に合った事がなかったから……。



底本:「夢野久作全集7」三一書房
   1970(昭和45)年1月31日第1版第1刷発行
   1992(平成4
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