早く出て行って下さい……」
 と云いかけましたが、ヒョイと妙なことに気が付きました。
 座ったままパイプを啣《くわ》えて、スパリスパリと煙草を吸っている無茶先生の顔がだんだん黄色くなって行きます。オヤオヤと思っているうちにその顔色が赤くなって、それから紫色になって、見る見るうちに真っ黒になってしまいました。
 番頭は肝を潰してしまいましたが、その時に不図気が付きますと、黒くなったのは無茶先生ばかりではありません。側に居た豚吉やヒョロ子はもとより、まわりを取り巻いている見物人も、無茶先生の煙草の煙に当ったものはみんな、顔色が黄色から赤へ、赤から紫へ、紫から黒へとなりかけています。
 番頭はふるえ上って奥へ飛んで来て、御主人の前まで来ると腰を抜かしました。
「御主人様。大変です大変です」
 と云いますと、主人と一緒に御飯をたべていたおかみさんも、子供も小僧さんも、みんなワッとお茶碗を投出して逃げてゆきそうにしました。
 それを主人は止めながら、
「大変とは何です。あなたは一体どなたです」
 と云いました。番頭は不思議そうに眼をキョロキョロさせながら答えました。
「私は番頭です」
「何、番頭。私の処にはあなたのような黒ん坊の番頭さんは居りません」
「エエッ。私が黒ん坊ですって。ああ、情ない。そんならやっぱりあの魔法使いにやられたのだ」
 と云ううちに、番頭さんはそこへ泣きたおれてしまいました。
「何、魔法使いにやられた。それはどういうわけだ」
 と、みんな番頭のまわりに集まってききました。
 番頭は泣きながら、
「今、表に魔法使いが来ています、その魔法使いと喧嘩をしましたためにこんなに顔を染められたのです。ああ、情ない。ワアワアワア」
 と、番頭はなおなお大きな声で泣き出しました。
「フーン、それは不思議なことだ。よしよし、おれが行って見てやろう。そんなに早く人の顔に墨を塗ることが出来るかどうか」
 と云いながら立ち上って表へ行きますと、ほかのものもあとからゾロゾロくっついて表へ来てみました。
 宿屋の主人が表に来て見ますと、無茶先生は相変らずパイプを啣えながらプカリプカリと煙を吹かしています。そうして、立っている人々も自分の顔が黒くなったのは知らずに、みんな無茶先生や豚吉やヒョロ子の黒くなった顔を面白そうに見ています。
 宿屋の主人は驚き呆《あき》れて、開いた口が閉《ふさ》がらぬ位でしたが、やっと落ち付いて無茶先生に向って、
「これ、黒ん坊の魔法使い。お前は何の怨《うら》みがあって、おれのうちの番頭をあんなに黒ん坊にしてしまった」
 と叱りました。
 無茶先生はその時ニヤニヤ笑いながら、宿屋の主人の顔を見て云いました。
「貴様のうちに泊めてくれないからだ」
「何、泊めてくれないからだ」
「そうだ。だから泊めてくれるまでここを動かないつもりだ」
 と、又白い煙を沢山に吹き出しました。主人はこれをきくと大層腹を立てました。
「馬鹿なことを云うな。おれのうちは貴様みたような生蕃人や、そんな片輪者なぞを泊めるようなうちじゃない。出てゆけ出てゆけ。泊めることはならぬ」
「アハハハハハ」
 と無茶先生は笑いました。
「今に見ていろ。きっと、どうぞお泊り下さいと泣いて頼むようになるから」
「何糞《なにくそ》。いくら貴様が魔法使いでも、おれはちっとも怖かないぞ。出てゆかねばこうだぞ」
 と懐中からピストルを取り出して、無茶先生につき付けました。
「フフン。おれを殺したらあとで後悔するだけだ」
 と無茶先生は落ち付いたもので、又も黒い鼻からと口からと白い煙をドッサリ吹き出しました。
 そうするうちに見物人はみんなワイワイ騒ぎ出しました。
「ヤアヤア。宿屋の御主人の顔が蒼白くなった。赤くなった。もう紫になった。オヤオヤ真黒になってしまった。奥さんもお嬢さんも、坊ちゃんも小僧さんもみんな黒くなった。大変だ大変だ」
 と騒ぎ立てましたが、そのうちに今度は自分たちの顔までも真黒になっていることに気が付きますと、サア大変です。
「ヤア。おれたちまでも魔法にかかった。大変だ大変だ。魔法使いを殺してしまえ」
 と寄ってたかって、無茶先生へ掴みかかって来ました。
 その時無茶先生は立ち上って、大勢を睨み付けながら怒り付けました。
「馬鹿野郎共。何が魔法だ。おれが色の黒くなる煙草を吸っているのを、貴様たちがボンヤリ立って見ているからだ。貴様たちの方がわるいのだ。それともおれを殺すなら殺せ。貴様たちは一生真黒いまま死んでしまうのだぞ。おれは白くなるお薬を知っているんだ。サア、殺すなら殺せ」
 これを聞くと、みんな一時に静まりました。そうしてその中から一人のお爺さんが出て来て、
「私たちがわるう御座いました。どうぞそのお薬を教えて下さいませ」
 とあやまりますと、ほかのものも地びたに手を突いて一生けんめいお詫びをしました。
 それを見ると無茶先生はうなずいて、
「よしよし。それなら貴様たちからこの宿屋の主人に頼んで、おれたちを泊めてくれるようにしろ」
 と云いました。
 宿屋の主人はこの時まで、自分のおかみさんや子供達が真黒になって泣いているのを見て、ボンヤリ突立っておりましたが、忽ちピストルを取り落すと、無茶先生の前に跪《ひざまず》いて、真黒な顔を畳にすり付けながら、
「どうぞどうぞお泊り下さいお泊り下さい」
 とピョコピョコお辞儀をして、手を合わせて拝みました。それを見ると無茶先生は大威張りで、
「それ見ろ。おれの云う通りだ。そんなら泊ってやるからうんと御馳走するのだぞ」
「ヘイヘイ。どんな御馳走でもいたします」
「よし。それじゃ教えてやる。みんなの顔が黒くなったのは、この煙草の脂《やに》がくっついたのだ。だからお酒で洗えばすっかり落ちてしまう。サア、おれたちにもお酒を入れた風呂を沸《わ》かしてくれ。そうして、おれには特別にあとでお酒を沢山に持って来い。この煙草を吸ったので腹の中まで真黒になったから、お酒を飲んで洗わなくちゃならん。サア、豚吉も来い。ヒョロ子も来い」
 と、大威張りでこの宿屋の一番上等の室《へや》へ通りました。
 無茶先生のおかげで豚吉とヒョロ子はやっと宿屋へ泊りましたが、宿屋の主人が大急ぎで沸かしましたお酒のお風呂で身体《からだ》を洗いますと、三人とももとの通りの姿になりました。又、ほかのものもみんな、無茶先生から教《おそ》わった通りにお酒で顔を洗って、もとの通りの白ん坊になりましたので大喜びで、無茶先生の不思議な術に誰もかれも驚いてしまいました。
 それを見た無茶先生は威張るまいことか、宿屋の主人が出した晩御飯の御馳走を喰べながら、豚吉と一緒にお酒を飲んで酔っ払って、大きな声で自慢を初めました。
「どうだ、みんな驚いたか。おれは当り前のお医者とは違うんだぞ。病気やなんか治すよりも、もっともっとえらいことが出来るんだぞ」
 これを聞くと、無茶先生と一緒にお酒を飲んでいた豚吉も威張り出しました。
「おれは、きょう、兵隊が千人と巡査が一万人と消防が十万人、町の者が十万人で向って来たのをみんな追い散らして来たんだぞ」
 これを聞いたヒョロ子はビックリしまして、
「そんなことを云うものじゃありません。もしこの町の巡査さんや兵隊さんがそれを聞いて、捕まえに来たらどうします」
 と叱りました。けれども豚吉は平気なもので、なおの事大きな声を出して云いました。
「ナアニ。大丈夫だ。その時は又無茶先生に追い払ってもらうのだ」
 と、つい本当のことを云いましたので、無茶先生もヒョロ子も腹を抱えて笑いました。
 けれども宿屋の主人は何も知りませんので、いよいよ感心して驚いてしまいました。
「ヘエー。それはえらいお方ばかりですな。それじゃ無茶先生は当り前の病気ぐらいは訳なくお治し下さるで御座いましょうな」
 と尋ねました。
 無茶先生はやはり真裸《まっぱだか》のまんま、ガブガブお酒を飲みながら大威張りで答えました。
「おお。どんな病気でも治してやる。その代り一人治せばお酒を一斗|宛《ずつ》飲むぞ」
「それじゃお酒を一斗差し上げますから、私の妻《かない》の病気を治して下さいませぬか」
「どんな病気だ」
「何だかいつも頭が痛いと申しまして、御飯を食べる時のほか寝てばかりおりますが、どんなお医者に見せましても治りませぬ」
「よし、すぐに連れて来い」
「かしこまりました」
 と、亭主は無茶先生たちの居る二階を降りてゆきましたが、間もなく手拭で鉢巻きをしたお神さんをおぶっこして上って来て、無茶先生の前にソッと卸しました。そのあとから上って来たさっきの番頭は、お酒を一斗樽ごと抱えて来て無茶先生の前に置きました。
 無茶先生はその樽の栓を取ると、両手に抱えてグーグーグーグー一息に呑み初めましたが、やがて飲んでしまいますと、
「アー。久し振り樽ごとお酒を飲んで美味《うま》かった。ドレ、お神さん。顔を見せろ」
 とお神さんの顎に手をかけて顔をジッと見ておりましたが、忽ち割れ鐘のような声で笑い出しました。
「アアアアアア。なるほど、頭が痛そうな顔をしているな。コレ、お神さん。お前はなあ、あんまり主人に我儘《わがまま》を云ったり、番頭や丁稚《でっち》を叱りつけたりするから頭が痛いんだぞ。しかし、その病気はすぐなおるから心配するな。これから頭が痛い時はすぐに、主人にこうしてもらえ」
 と云ううちに、右の手で岩のような拳固《げんこ》を作って、お神さんの右の横面《よこつら》をグワーンとなぐりつけました。お神さんは、
「ギャッ」
 というなり眼をまわして、左の方へたおれかかりました。そこで無茶先生は今度は左の拳骨を固めて左側から横ッ面をポカーンとなぐりつけますと、眼をまわしていたお神さんはパッと眼をさまし、そこいらをキョロキョロ見まわしておりましたが、
「アラ。私の頭の痛いのが治ったよ。まあ、何という不思議なことでしょう。ほんとに無茶先生、有り難う御座いました」
 と大喜びでお礼を云って降りて行きました。
 この様子を見ていた宿屋の主人は、もう無茶先生のエライのに肝を潰してしまいました。
「ああ、ビックリしました。先生は何というエライお方でしょう。それではお序《ついで》に私の息子の病気も治していただけますまいか」
「フーン。貴様の息子の病気は何だ」
「ヘエ。私の息子の病気は、いつもお腹が痛いお腹が痛いと云うて学校を休むのです。どんなお医者に見せても治りません」
「そうか。それはわけはない。おれが見なくとも病気はなおる」
「ヘエ。どうすればなおります」
「朝の御飯を喰べさせるな」
「そうすればなおりますか」
「そればかりではいけない。昼のお弁当を息子に持たせずに、学校の先生の処へお使いに持たしてやれ。どんなことがあっても朝御飯と昼御飯をうちで喰べさせるな。そうすればお腹が空《す》くからイヤでも学校に行くようになる」
「成るほど。よくわかりました」
「サア。酒をもう一斗持って来い」
「ヘイ、只今持って来させます。それでは序《ついで》に私のおやじがカンシャク持ちで困りますから、それも治して下さいませ」
「よしよし、つれて来い」
 こうして無茶先生は家《うち》中の者の病気をみんな治してやりました。
 先ずおやじのカンシャク頭は、テッペンをクリ抜いて蓋をするようにして、憤《おこ》った時はその蓋を取ればなおるようにしてやりました。
 お婆さんの禿頭《はげあたま》は、頭の上を掻きむしって、毛の種を蒔《ま》いてやりました。
 娘の低い鼻は、鼻の穴に突っかい棒を入れて高くしてやりました。
 女中の居ねむりは、着物の襟にトゲを縫いつけて、うつむくと痛いように仕かけてやりました。
 下男の腰が痛いのは、腰の処に太い鉄の釘を打ち込んで丈夫にしてやりました。
 こうしてみんなの病気を治してやりましたので、無茶先生のまわりに大きい、小さいお酒の樽がいくつも積まれました。
「もう病人は居ないか」
 と無茶先生が云いますと、宿屋の主人は畳にあたまをすりつけて、
「ありがとう御座います。この上はこの家《うち》中のもの
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