きます」
「イケナイ。そんなことをすると喰い付くぞ、この野郎」
 と云うと、イキナリ豚吉はヒョロ子の髪毛《かみのけ》を捕まえました。
「アア痛い。放して下さい放して下さい。逃げられませんから」
 とヒョロ子は金切声を出しました。
 これを見た往来の人々は、
「ヤア。あすこで夫婦喧嘩を初めた。今の間に捕まえろ」
 というので梯子を持って来ますと、元気のいい二三人の青年が屋根の上に飛び上って来ました。
 それを見ると、豚吉は慌ててヒョロ子の髪毛を放しながら、
「ソレ、捕まるぞ。逃げろ逃げろ」
 と云いますと、ヒョロ子は夢中になって往来を隔てた向うの屋根に飛び移りました。
「ソレ、又逃げ出した」
「あっちへ行った」
「追っかけろ追っかけろ」
 と追いまわし初めましたが、何しろ人数が多いのでヒョロ子夫婦はどっちへも逃げようがありません。それをあっちへ飛び、こっちへ飛びしているうちに、ヒョロ子は豚吉を背負ったままだんだん町外れの方へ来ましたが、その家の無くなりがけに小さい古ぼけた屋根が見えます。そこから先はもう家も何も無い上に、仕合わせと人間もまだ追い付いて来ていない様子で、往来には誰も居ないようですから、ヒョロ子は占めたと思いまして、高い屋根の上からその低い屋根の上に両足を揃えて飛び降りますと、その屋根は腐っていたものと見えまして、ヒョロ子と豚吉の重たさのためにズバリと破れました。そうしてその勢いでヒョロ子は豚吉を背負ったまま屋根の下の天井までも打ち抜いて、その下に寝ている人の腹の上にドシンと落ちかかりました。
「ギャッ。ウーン」
 と云って、寝ている人はそのまま眼をまわしてしまいましたが、そのおかげでヒョロ子も豚吉も怪我をしないで起き上って見ますと、こは如何《いか》に……眼をまわしているのは無茶先生で、そこいらには鍋だの焜炉《こんろ》だの豚の骨だの肉だのが一面に散らばっております。その横には最前の馬もまだ足を投げ出して寝ています。
「まあ。大変よ、無茶先生ですよ。さっきの豚を捕まえて召し上って、寝ていらっしたところですよ。その上から私たちが落ちかかったのですよ……まあ、ほんとにどうしましょう」
 とヒョロ子は泣声を出しました。
「心配するな。そこにあるバケツの水を頭からブッかけて見ろ」
 と豚吉が背中から云いましたので、ヒョロ子はその通りに無茶先生の頭からブッかけますと、無茶先生は、
「ウーン。ブルブルブル」
 と眼をさましました。そこへも一パイ頭からバケツの水をブッかけましたので、無茶先生は、
「ウワア。夕立だ、雷だ」
 と云いながら飛び起きました。
 その様子が可笑《おか》しかったので、ヒョロ子も豚吉も腹を抱えて笑い出しましたが、無茶先生は頭から濡れたまま眼をこすってよく見ますと、思いもかけぬヒョロ子が豚吉を背負って立っていますので、又驚きました。
「ヤア、お前達はどうしてここへ来たのだ」
 と尋ねました。
 ヒョロ子は落ちかかる豚吉をゆすり上げながら今までのことをお話ししますと、無茶先生は面白がってきいておりましたが、
「フーンそうか。それじゃ、町中の奴がお前達夫婦を見たいと云って追っかけまわしたのか。それは困ったろう。しかし、それというのも、お前たちがおれの云うことをきかないからこんなことになるのだ。おれの云うことをきいて背骨を入れかえてさえおけば、そんな眼に会わなくても済むのだった」
 と云いましたので、ヒョロ子は豚吉も気まりがわるくなって、
「ほんとに済みませんでした。もうこれからどんなことをされても恐がりませんから、どうぞ当り前の人間にして下さい。今度でもうコリゴリしました」
 と床の上に座ってあやまりました。無茶先生は大威張りで、
「よしよし。お前達がそんなにあやまるならば、今度は背骨だけでなく、身体《からだ》中すっかりたたき直して、ビックリする位立派な人間に作りかえてやろう」
「ええっ。そんなことが出来ますか」
「ウン、出来るとも出来るとも。お前達はおれの腕前を知らないからそんなことを云うけれども、おれが持っている薬の力ならば、どんなことでも出来ないことはないのだ」
「ありがとう御座います。それではすぐに治して下さい」
「イヤイヤ、ここでは出来ぬ。それには支度が要るから、どこか鍛冶屋へ行かなければ駄目だ。今からすぐ行くことにしよう」
 と、無茶先生はすぐにお薬を取り出して、鞄の中へ入れ初めました。
 その時にはるか向うから、
「ワーッ、ワーッ」
「あすこの家《うち》に珍らしい夫婦が逃げ込んだ」
「無茶先生の家《うち》だ無茶先生の家だ」
「それ、押しかけろ押しかけろ」
 と云う声がすると一所に、あとからあとから大勢の人間が押しかけて、無茶先生の家のまわりを一パイに取り巻いてしまいました。
 無茶先生はこれを見ると真赤になって憤《おこ》り出しました。
「こん畜生。来やがったな。よしよし、おれが追払《おっぱら》ってやる。お前達は二人共鼻の穴にこの綿を詰めてジッとしていろ。そうして、馬鹿共が居なくなったら、すぐに逃げられるように用意していろ」
 と云ううちに、無茶先生は自分の鼻の穴にも綿をドッサリ詰め込んで、丸|裸体《はだか》のまま表に飛出して大勢の者を睨み付けますと、
「コラッ。貴様共は何しに来たんだッ」
 と怒鳴り付けました。
 すると、大勢の人の中から一人の大きな強そうな男が飛び出して来て、
「貴様は無茶先生か」
 とききました。
「そうだ。貴様は何だ」
「おれはこの町の喧嘩の大将だが、今貴様のうちにヒョロ長い女がまん丸い男をおぶって逃げ込んだから捕まえに来たんだ」
「何だってその夫婦を捕まえるんだ」
「その夫婦は奇妙な姿で屋根から屋根へ飛び渡って町中を騒がしたんだ。そのため怪我人や死んだものが出来たんだ。それだから捕まえに来たんだ」
「馬鹿野郎。貴様たちがその夫婦を無理に見ようとしたから夫婦が逃げ出したんだろう。貴様たちの方がわるいのだ」
「こん畜生。貴様はあの夫婦に加勢をして、おれ達に見せまいとするのか」
「そんな夫婦はおれの処に居ない」
「居ないことがあるものか。あの屋根を見ろ。あんなに破れている。あすこから落ちこんだに違いない」
「そんなら云ってきかせる。夫婦はうちに居るけれども、貴様たちに渡すことは出来ない」
「こん畜生。貴様はおれがどれ位強いか知ってるか」
「知らない。いくら強くても構わない。おれが今追い払ってやる」
「追い払えるなら追い払って見ろ」
「ようし。見ていろ」
 と云ううちに、無茶先生は隠して持っていた香水の瓶を取り出して、家のまわりにぐるりとふりまきました。
 それを嗅ぐと、大勢の人は吾れ勝ちに嚔《くしゃみ》を初めて息もされない位で、しまいにはみんな苦しまぎれに眼をまわすものさえ出て来ました。
 それを知らないであとからあとから押しかける町の人々はみんなクシャミを初めて、これはたまらぬと逃げ出します。大きな男の喧嘩大将も一生懸命我慢していましたが、とうとう我慢し切れなくなって、百も二百も続け様《ざま》にクシャミをしているうちに地びたの上にヘタバッてしまいました。
 けれども、遠くからこの様子を見ていた人は、みんなが嚔をしていることはわかりません。只、無茶先生の家のまわりを取り巻いている人が、みんなひっくり返って、上を向いたり下を向いたりして苦しんでいる有様しか見えませんから、驚きまして、
「コレは大変だ。あの無茶先生は大変な魔法使いに違いない。まごまごしているとみんな殺されるかも知れぬ」
 というので、ドンドン逃げ出してゆきました。
 大勢の人が無茶先生の香水に恐れて逃げて行きました。おかげでうしろの方に居た巡査さんや消防は、やっと前の方に出て来ることができましたが、その巡査さんや消防たちも無茶先生の香水のにおいを嗅ぐと、やっぱり同じこと一時にクシャミを初めまして、消防は鳶口《とびぐち》を持ったまま、又巡査さんはサーベルを握ったまま、あっちでもこっちでも、
「ハクションハクション」
「ヘキシンヘキシン」
「フクシンフクシン」
「ファークショファークショ」
「ハアーッホンハアーッホン」
 と云ううちに、みんな引っくり返ってしまいました。
 この様子を見た大勢の人々はいよいよ驚いてしまいました。
「これは大変だ。巡査さんや消防までも無茶先生に殺されそうだ。早く兵隊さんを呼んで来て、無茶先生を殺してもらおう」
 と、大急ぎで兵隊さんを呼びにゆきました。
 けれども、無茶先生や豚吉やヒョロ子は鼻の穴に綿をつめておりますから、香水の香《にお》いもわからなければ嚔《くしゃみ》も出しません。
「サア、この間に逃げるんだ」
 と無茶先生は云いながら、横にあった金槌を取り上げて、横に寝ている馬の頭をコツンと一つなぐり付けますと、馬はパッと生き上りました。それを表に引き出して、細引で口縄をつけると、無茶先生が裸体《はだか》のまま鞄を持って一番先に乗ります。そのあとからヒョロ子が豚吉を背負って馬の背中に這い上りますと、無茶先生が手綱を取って、
「ハイヨーッ」
 と云うと、広い往来を一目散に逃げ出した。
 その時、うしろの方から勇ましいラッパの音がきこえて、兵隊さんが大勢、無茶先生の家《うち》へ押寄せましたが、見ると無茶先生と豚吉とヒョロ子は馬に乗ってドンドン逃げて行く様子です。
「ソレッ。魔法使いが逃げるぞ。打て打て」
 と云ううちに、兵隊さんは横に並んでドンドン鉄砲を打出しましたが、ちょうどその時、兵隊さんはみんな無茶先生の香水のにおいを嗅ぎましたので、みんな一時にクシャミを初めて鉄砲を狙うことが出来ません。撃ってもクシャミをしながら撃つのですから、弾丸《たま》はとんでもない方へ行ってしまいます。その間に無茶先生と豚吉とヒョロ子を乗せた馬はドンドン逃げてしまいました。
 やがて馬が或る山の麓《ふもと》まで来ますと、無茶先生は馬から下りまして、
「サア、ここまで来れば大丈夫だ」
 と、ヒョロ子を馬から下ろしてやりますと、ヒョロ子も背中から豚吉を下ろしてやりました。そうして三人は鼻の穴の綿を取って棄てました。
 無茶先生はそれから馬をもと来た道の方へ向けて、お尻をピシャリとたたきますと、馬は驚いてドンドン駈けてゆきました。
 裸体《はだか》のままの無茶先生は豚吉とヒョロ子を連れて、それからすこしばかり行ったところの町で一軒の宿屋に這入りました。
 ところが宿屋の者は三人の奇妙な姿を見ると、恐ろしがってなかなか泊めてくれませんでしたから、それじゃ物置でもいいからと云いましたけれども泊めてくれません。そのうちにその宿屋の表には見物人が黒山のように集まりました。
 無茶先生はとうとう怒り出してしまいました。
「この馬鹿野郎共。何が珍らしくてそんなに集まって来るのだ。人間だから裸で居るのもあれば、背の高いのもあれば低いのもあるのは当り前の事だ。それを珍らしがって見に来るなんて失敬な奴だ。又、この宿屋の奴もそうだ。おれたちのどこがわるいから泊めてくれないのだ。おれたちはみんな人間だぞ。人間が宿屋に泊めてくれというのが何がわるいのだ。愚図愚図云うと、貴様共をみんな盲《めくら》にして終うぞ」
 と云ううちに、鞄から小さな粉薬の瓶を出しました。
 それを見ると豚吉は、
「おもしろいおもしろい」
 と手を拍《う》って喜びましたが、ヒョロ子は慌ててそれを止めまして、
「まあ、先生。そんな可愛そうなことをなさいますな。泊めてくれなければ、私たちは山の中に寝てもよろしゅう御座いますから」
 と云いました。
 そうすると無茶先生は、
「よし。それではやめてやろう。その代りおれは泊めてくれるまでここを動かない」
 と云ううちにその粉薬を仕舞って、その宿屋の上り口のところにドッカリと座りますと、今度は鞄からパイプを出して、黒い色の煙草を詰めて、火をつけてスパリスパリと吸い初めました。
 店の番頭は困ってしまいました。
「どうもそんなことをなすっては困ります。こんなに店の前に大勢人が居ては、ほかのお客さんが泊りに来られませんから
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