てしまった。乱拍子の中で身体を曲げて鐘を見た。鐘が手に届かない位高かったのを見事に飛んだ……云々の二項で、当日の出来がゾッとするほどハッキリとわかった。六平太氏の覚悟と実さんの覚悟が、決死以上に陶酔していた心境が、今でも背中をゾクゾク匍いまわっている位よくわかった。或る意味で自分が見た以上に満足した。これは決して負け惜しみでない。と、いう理由は左の通りである。

 現代の文士とか批評家とか、又は学者、その他の芸術研究家、もしくは芸術愛好者の類で、時々「能」にチョッカイを出す人があるが、筆者の思うほどに「能」に突込んでくれる人が一人もいない。皆、真偽のわからない掛物に対する鑑定家みたいに、いい加減な否定や肯定ばかりしている。自分のボロを出さないように警戒しいしい「ハハア。成る程」とか「結構ですな」とか何とか言い言い腮を撫でている態度である。又は、鳥仏師の彫刻を、幾何学的に割り出した曲線や直線に当てはめようとする美学家のように、自分の得た極めて平面的な、死理、死論によって能の定義を作ろうとする痴識万能信者ばかりである。
 みんな「能」に負けない気でいるからおかしい。能に恐れ入っては――又―
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