奥歯を噛みしめてジッとしていた。筆なんぞ執る気は無論しないから、古い自分の作品を読んで午睡にかかったが、どうしてもねむれない。頭の中がシュルリアリズムの絵みたいに冴えかえって、自分の作品が単なる活字の行列に見える向うに、四谷の舞台と釣鐘が見える。急の舞いの太鼓が聞こえる。烏帽子《えぼし》がキリキリキリと虚空に回転して飛んで行く。鐘がグーッと下って来る。ああたまらない。ビッショリと汗を掻いて起き上る。トテも睡れない。
 午後になるのを待ちかねて、野球を見に行ったが、そのうちにやっと落着いて家に帰れた。
 あとから聞くと、一日中機嫌が悪くて、妻子が弱ったそうであるが、自分は極力ニコニコしている積りであった。何かしら非常に疲れていたようで、早くからグッスリと睡った。日記も当日は白紙になっている。
 二、三日してから先輩江戸川乱歩氏と大下宇陀児氏から道成寺の感想を知らせて来た時には非常に嬉しかった。あんまり嬉しかったので実さんに頼んで「喜多」に掲載して貰うことにした。それに続いて坂元雪鳥さんが朝日に書かれた能評を、同じく能キチガイの従妹が切り抜いて送ってくれたので、スッカリ当日の印象がまとまっ
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