が天保人を時代|後《おく》れと罵ったのと同じ意味からであった。
因果応報なぞと笑ってはいられぬ。時代後れが出来る毎に日本は堕落して行く。亡国のあとを追うて行くのだから。
明治人はしかしこれを自覚しない。明治時代と大正時代の思想の差が、旧藩時代と明治時代のそれよりもずっと甚だしい事すら知らない。
世界一の不良境
東京の子女が不良化して行く経路は極めてデリケートである。殊に現在の不良化の速かさ、不可思議さは世界一かも知れない。
都会の子女は生意気だという。それだけ都会が刺戟に満ちているからである。
震災後の東京は殊に甚だしい。毒々しい、薄っぺらな色彩のバラック街……眼まぐるしく飛び違う車や人間……血走った生存競争……そんな物凄い刺戟や動揺《どよ》めきをうけた柔かい少年少女の脳髄は、どれもこれも神経衰弱的に敏感になっている。ブルブルと震え、クラクラと廻転しつつ、百色眼鏡式に変化し続けている――赤い主義から青い趣味へ――黄色い夢幻界から黒い理想境へ――と寸刻も止まらぬ。その底にいつも常住不断の真理の如く固定して、彼等を刺戟し続けているものは、本能性や堕落性ばかりである。
このような刺戟に対する敏感さと、これを相手に伝える手段の巧妙さと新しさとは、彼等都会の子女が常に誇りとしているところである。
生活にいじけ固まった明治生れの親達は、こんな気持ちを忘れている。
ボンヤリする心
彼等都会の少年少女は、その頭の鋭さ、デリケートさに相応する相手を求むべく、飢えかわき、ふるえおののいている。――秘密、犯罪等を扱った科学雑誌等を読みたがっている。――その中に隠されている、人生に対する皮肉、反逆、嘲罵の巧妙さを直感して快がっている。そうしていつの間にか、そんな事をやって見たい気持ちになっている。
内外の小説に極めて繊巧に、又は露骨に描かれた挑発的な場面を、紙背に徹する程眼を光らして読んでいる。
友達と話が出来ないというので活動に這入る。先ず俳優の名前を覚えて、その表情から日常生活まで研究する。そうしてこれを嘆美したり、崇拝したり、通を誇ったりする。
その中《うち》に世間が活動のように見えて来る。或る場面が自分の境遇のように思える。あの人があの俳優のように見える。圧迫から逃れて恋に生きる場面が、自分を中心にいく度《たび》か妄想される。そうしてボンヤリと明かし暮らす。
親はそんなことに気付かぬ。
ルパシカを着る息子
たとえば息子がルパシカを着て喜んでいるとする。
親は、単純な物好きか、又は社会主義にカブレたのかと思って叱り付ける。
ところが見当違いである。本人は物好きでも社会主義者でもない。
近頃の東京の若い女、殊に自堕落な気分に浸《ひた》る女の中には、そんな風な男を好く国もない。家もない。思想的に日本よりもはるかに広く思われる露西亜《ロシア》、政治上の最高権威者が労働者と一緒に淫売買いに行く国、婦人子供国有論が生れる国――そんな国にあこがれているために日本の社会から虐げられている青白い若い男……そんな男は小説を読む淫売なぞに特にもてはやされることをその息子は知っている。だからそんな風をするのだ。
……と知ったら、親はどれ位なげくであろう。
まだある。
机にかける布《ぬの》切り子やセルロイドの筆立て、万年ペンのクリップ、風呂敷、靴にまで現われている趣味を通じて、その子女が世紀末的思想から生れた頽廃趣味に陥っていることを見破り得る親は先ずあるまい。
その持っているノートの黒い小さなゴムの栞《しおり》や、万年筆用の黒いクリップが、ナイフや針で文字を彫って、異性の家の壁や約束の立ち木やに隠して、秘密通信をやるのに便利な事を知っている監督者も先ずあるまい。
男のような字を書く娘、女のような字を書く息子が、変名を使って異性と通信しているに違いない事を看破し得る父兄もあまりあるまいと思う。
まだまだ驚く事がある。
大人に対する反逆
近頃の少女はハンケチを畳んで、胸の肌に直接に押し当てている。又、男の子は帽子の中にハンケチを入れて冠っている。
それは、少女はお乳をふくらすため、又、男の子は香水を湿《しめ》して入れておくためと思っていたら大違いだと、一人の不良少年が笑った。
そんなら交換して異性の香《におい》を偲ぶためかときいたら、
「まあ、そんなところでしょう。ハハハハ」
と又笑った。その笑い方が変だったから、根掘り葉掘り尋ねたら、彼は一種皮肉な、イヤな笑い方をしながら、こう答えた。
「それあ云ってもよござんすがね、あなた方に必要のない事なんです……何故ってあなた方は皆、情欲の方のブルジョアなんでしょう。奥さんもおなりになれば、芸者買いも出来る。だから必要はないんです……若いものはみんなみじめな肉欲のプロですからね……女の子だってそうです。大人が受けている自由を吾々は禁ぜられているのです……ですから異性の香《におい》を嗅ぎながら眼を閉じて……」
記者はこれ以上書く勇気を持たぬ。しかし何という巧《たくみ》な議論であろう。何という不愉快な風潮であろう。
少年少女の不良行為が、大人の専制に対する反逆的意味を持っていようとは、この時まで気が付かなかった。記者も矢張り明治人であった。
こうした反逆気分は、少年少女が使う新しい言葉にもうかがわれる。
おやじのシャッポ
新しい言葉の字引きなぞいう書物が近頃流行するが、現在の東京の少年少女が使う新しい言葉は、その中には一つも見当らぬと云っていい。又見つかる筈もない。日毎に月毎に、次から次へと新熟語が出来て、或は親たちを馬鹿にするために、又はいい人と秘密通信をするために用いられている。
ブル、プロ、ファン、セット位しか知らない明治人に、彼等の会話や手紙が理解されよう筈がない。
「おやじのシャッポ(ポコペンとか駄目とかいう意味)がホームラン(流連《いつづけ》のこと)」だの、「彼女のラジオ(色眼)がミシン(意味深長)」なぞ云って、わかる気づかいは毛頭ない。
否、こんなのももう古い。記者がこう書いている間にも、新しい単語が本場の東京でドンドン殖えているに違いない。
こんな事のすべてに対して、今日までの生活本位の親たち、月給取り本位の教育家、月謝取り本位の学校、政党本位の当局は注意が行き届かなかった。
これからもそうに違いない。
御蔭で不良少年少女は大手を振って殖えて行く。禁漁区の魚のように新東京のバラック街をさまようている。
若い女性の享楽気分
ここで是非特筆大書しておかねばならぬ事は、最近の東京に於ける若い女性の享楽気分である。
よく「女は女らしく」、「男は男らしく」と云うが、今の東京では、その「男らしい」と「女らしい」との意味が昔と違っている。「男が人間なら女も人間だわ」という意味である。だから、今の東京の女らしい女は、なかなか活溌で、華やかで、積極的で、魅惑的である。
そんなのの前に男らしく跪《ひざまず》いて、堂々と満身の愛を告白する。昔のように自己を偽って見識ばらぬ。そんなのが「男らしい男」らしい。
「神様が男の粕《かす》から女を作った」の、「女は家庭の付属物」だのと心得ているのは、中世紀か封建時代の思想である。その粕が馬に乗って民衆運動の先登《せんとう》に立った時代も過去の事である。新しい婦人が吉原へ女郎買いに行ったのは更に古い時代である。議会で男の席までも占領したとて、ちっとも驚く事はない。
婦人参政――被教育権の主張――その他社会的の地位を要求する黄色い声は、天下に満ち満ちて来た。
産児制限に依て象徴される、婦人の享楽的権利の主張は、医術と薬剤の発達でドシドシ貫徹されている。
職業婦人の増加に依って、婦人の独立生活、享楽生活の容易な事は明らかに証明されている。
女性崇拝の外国映画は盛にこの傾向の太鼓を持つ。
欧米の新思想は又、精神的方面からこの傾向を刺戟して、目下八度五分位の熱を出しているところである。
新しい女の先覚者の活躍時代は過ぎた。今は一般に普及しつつある時代である。男女同権――否、女尊男卑がドシドシ流行する。
反《そ》り女に屈《かが》み男
呆れても驚いても追付かぬ。東京の女は男と同様に自由である。眼に付いた異性に対して堂々とモーションをかける。異性を批判し、玩味し、イヤになったらハイチャイをきめていい権利を、男と同じ程度に振りまわしている。只、全部が全部でないだけである。
こうした傾向にカブレた東京の少女は、知らぬ男から顔を見られても、耳を赤くしてうつむいたりなんぞしない。アベコベにジッと見返すだけの気概? を持っているのが多い。これはどなたでも東京に行って御試験になればわかる。
往来を歩く姿勢も、昔と違って前屈みでない。昔は「屈み女に反り男」であったが、今では「反り女に反り男」の時代になった。今に「反り女に屈み男」の時代が来るかも知れぬ。
表情も昔と違ってキリリとなった。触《さわ》らば落ちむ風情なぞは滅多に見当らぬ。八方睨みを極めてあるきながら、たまたま男と視線が合っても、じっと一睨みしてから、「チッ」とか「フン」とかいった風に眼を外《そ》らして通り抜けるのさえある。
田舎からポット出の学生なぞは、あべこべに赤面させられそうである。
同性愛の新傾向
女学生間に同性愛が流行したのは震災前が最も甚だしかった。
先ず同級か下級の生徒の中で、好ましい風《ふう》付きと性質の少女《ひと》を見付け出して同性愛《シスター》関係を結ぶ。二人切りで秘密の名前をつける。手紙のやり取りをする。持物や服装を人知れずお揃いにする。これが嵩じて、情死する迄愛するのもある。これは「性」の悩みの不自然な慰め方として憂慮されていた。
その話がこの頃下火になった。異性愛流行の結果、あっても目立たなくなったのか、それとも異性との交際が自由になったために、そんな必要がなくなって減少した者かと、一部の教育家は首をひねっている。
一方に或る私立女学校の舎監であった人は記者にこんな話をした。
――男学生の悪いのは下宿屋|住居《ずまい》で、女学生のいけないのは寄宿舎と、あらかた相場が極っている。その女学校の寄宿舎に来る手紙を、学校によっては舎監が一先ず受け取って、怪しいと思われるのは、秘密に開封した上で渡したり、又は握り潰しているところがある。そうでもしなければ、絶対に学校の風紀は保たれないと云っていい。
その手紙の中には、女文字の男の手紙がいくらもある。封筒だけ女生徒が書いて送ったのもある。その内容を見ると、女生徒が出した手紙の内容を察せられるのもある。そのほかいろいろあるが、中には舌を捲くような名文や、際《きわ》どい告白がある。芸者の内証《ないしょう》話にも負けない位である。
――そんなのの中には、同性愛と認められるのも珍らしくない。震災前より殖えるとも、減っていない事を明言出来る。但、異性関係のそれと比べると問題にならぬ。
私の学校では、上級生と下級生とを、一人か二人|宛《ずつ》組み合わせて一室に入れている。その中で一番上級の年嵩《としかさ》なのを「お母さん」と呼ばせて、一切の世話と取締をやらせる。そのほかの目上の生徒は「姉さま」と呼ばせ、下級生は「何子さん」と呼ばせて、家族みたいな生活をさせている。
ところで、以前、怪しい文句の手紙が来るのは、三年生以上に限られていたが、それも現在の十分の一位で、大抵は同性愛式のものであった。それが今では、三年生以上に来る男の手紙が殖えると同時に、入学し立てのホヤホヤの生徒に迄同性愛が及んで来た。或は小学生時代から持って来た習慣ではあるまいかと思われる節がある。
というのは、或る立派な家庭のお嬢様が、優等の成績で入学しながら、何故か学校に来ない。その両親から沢山の寄付が学校にしてある関係から、学校側でも心配して、内密に欠席の理由を調べて見ると、そのお嬢さんと同性愛に落ちている生徒
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