標語を徹底的に味わった。
「必要の前に善悪無し」
この悪魔の標語ポスターは今も尚、新東京の暗黒面の至る処にブラ下がっている。上中下各階級の人々は互にその同階級の人々と風儀を紊《みだ》し合っている。同時に上流は下層に、下層は上流に対して、益《ますます》その自由行動の範囲を広めつつある。
性欲秘密薬と書画
最近の東京では、性病又は性病予防等に関する秘密薬の売れ行きが盛である。Y書(学生語)出版も同時に大流行である。これ等の売薬や書籍は白昼堂々と店頭に曝《さら》されている。いずれも数年以前はその筋のお許しが出なかったものばかりである。
これと同様に秘密の石版画、秘密のP・O・P、秘密の謄写版刷は、東京の暗《やみ》から暗《やみ》へ、恰《あたか》も独逸《ドイツ》の紙幣のように波を打ちまわっている。その価格も震災前の半分内外だという。
このような商売をするものは、震災後、その筋の調《しらべ》の行届かぬのに乗じて非常に沢山出来たらしく、その商品は一時東京市中に生産過剰を来たした。一方に、被服廠その他の死体写真の秘密売買で呼吸を覚えた連中は、引続いてこの商売を引き受けたと伝えられる。
現在では市内の商売が落ち付いて来た結果、このような生産物がよほど減ったらしいが、それでもかなり多い事はその筋の差押え高でわかる。
怪しい大道商人
以前東京では、縁日の出はずれ、浅草、神田、京橋|辺《あたり》の露店の切れ目、活動館の付近、人通りの多い近所の蔭暗い処に、蝋燭《ろうそく》を一本立てて怪し気な絵を売買したものである。あとで見ると、忠臣蔵、弥次喜多、女と男の柔道の絵なぞで、買って少し行ってのぞいて見る間のねうちであった。中には本物もあったという。
この商売が今は動的となった。
日が暮れて九時頃になると、見すぼらしい風をして往来に出る。番頭風もある。労働者風もある。いずれにしても見すぼらしくなければいけないそうである。程よい人間を見るといきなり擦寄《すりよ》る。絵をチラリと見せて、一枚一円とか二円とか云う。相手を恐れるような、脅迫するような、そうして今にも逃げ出しそうな態度を見せるのが一番有効だそうである。これは死体写真の売り方と同一で、慣れると相手に品物を渡す。自由に見せながら、見え隠れについて行く。程よいところで金をせびる。もっと熟練すると、白昼、繁
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