《テーブル》に、ダブダブのズボンを穿いた長髪の青白い男が来た。その男は、記者がテーブルの上に投《ほう》り出した大型のスケッチブックとマドロスパイプを見て、ニコニコと話しかけた。
「バラック建築の御研究ですか」
これをキッカケに二人は同じ卓子《テーブル》に向い合った。名刺を交換していろいろ話し込んだ揚句《あげく》、彼は自分が秘密画家である事を告げた。
彼は最初にこんな謎のような事を云った。面白いから書いておく。
「物には裏と表があります。私自身にもあります。そうして問題は、只、この裏と表を自分の頭でハッキリと区別して使いわけながら、生活し得るか得ないかにあります。特に芸術ではそうです」
「私は嘗て文展に能のお面を出して落選しました。その原因がこの頃になってわかりました。平生私が秘密画ばかり描いているために、お能のお面にもその気持ちがうつって、上品さを傷つけるのです。殊にあの不可思議な唇の開き工合のところで迷わされています」
「これは私が修養の出来てないせいでしょう。私が秘密画とお能の面とを美事に描き別け得た時は、私が芸術家として成功した時でしょう」
彼はこう云いながらウイスキーを飲んだ。彼の眼は彼自身の神聖さに輝いた。
彼は大森の下宿へ記者を引っぱって行った。そこで更に飲み続けながら、記者にいろんなものを見せ且つ話した。いろいろ儲かる話を持ちかけた。是非Y文を書いてくれ、それによって絵を描くからと云った。彼は記者を掘り出したつもりでいた。記者は掘り出される約束だけして逃げた。
芸術家の生活と誘惑
自分の高尚な絵が売れぬ。売れても絵の具代に追っつかぬ。一方に秘密画さえ描けば、粗末なものでも非常に高価《たか》く早く売れるという事実は、不断に在京の画家を誘惑している。
文展や院展に出す絵のモデル代、旅行費、絵の具代、間借り代、その他の生活費は、つまらぬ絵を二三十枚描く辛棒さえあれば訳なく取れる。そのためには仲買人も居れば、モデルも居る。只、いつも浮世絵風の線で(無論ゴマカシでよい)描かなければならぬのが、洋画家なぞにとっては困るといえば困る位のものである。
このような絵の直接御用命者には然《さ》る○○な方々もある。西洋人もある。間接の手を経て外国へも続々行くらしい。某ホテルのボーイ頭なぞはその仲介に立って大金を蓄《た》めていると聞く。
同時に東
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