シイン……」
 と云う女将《おかみ》らしい声がして、コック部屋兼帳場の入口の浅黄色の垂幕の蔭から、色の青黒い、眦《まなじり》の釣上った、ヒステリの妖怪《おばけ》じみた年増女の顔が覗いたと思うと、茫然として突立ている吾輩とピッタリ視線を合わせた。
「アラッ……先生じゃ御座いませんの……まあ……お珍らしい……よくまあ」
 と云ううちに浅黄色の垂幕を紮《から》げて出て来た。生々しい青大将色の琉球|飛白《がすり》を素肌に着て、洗い髪の櫛巻《くしまき》に、女たちと同じ麻裏の上草履《うわぞうり》を穿《は》いている。コンナ粋な女に識合いはない筈だがと、吾輩が首をひねっているにも拘《かか》わらず、女将は狃《な》れ狃れしく近寄って来て、溢《あふ》るるばかりの愛嬌を滴《したた》らしながら椅子をすすめた。

     拳骨辻占

「まあ……どうも飛んだ失礼を致しまして……場所慣れない若いものばかりなもんですから……お見外《みそ》れ申しまして……さあどうぞ……ほんとにお久し振りでしたわねえ。御無沙汰ばかり……」
「馬……馬鹿云え。お珍らしいって俺あ初めてだぞ。お前みたいな人間には生れない前から御無沙汰つづきなんだぞ……テンデ……」
「オホホホホホホホ……」
 女将の嬌笑が暗い部屋に響き渡った。その背後《うしろ》の浅黄幕《あさぎまく》の間から、ビックリ人形じみた女たちの顔が、重なり合って覗いている。
「オホホホ……恐れ入ります。まったくで御座いますよ先生。この町中の水物屋《みずものや》で、先生のお顔を存じ上げない者は御座いませんよ」
「ハハア。俺に似た喰逃《くいにげ》の常習犯でも居るのか……」
「まあ、御冗談ばかり……それどころでは御座いませんよ先生。先生のお払いのお見事な事は皆、不思議だ不思議だって大評判で御座いますよ」
「ううむ。扨《さて》は夜稼《よかせ》ぎ……という訳かな」
「そればかりでは御座いませんよ。いつも一杯めし上ると声色《こわいろ》使いや辻占《つじうら》売り、右や左なんていう連中にまで、よくお眼をかけ下さるので、そのような流し仲間では先生のお姿を拝んでいるので御座いますよ。先生は福の神様のお生れ変りで、いつもニコニコしておいでになるから縁起《えんぎ》がよいと申しましてね。どこの店でも心の中で先生のお出でを願っているので御座いますよ先生……」
「……ああ、いい気持ちだ。汗ビッショリになっちゃった。本気にするぜオイ……」
「嫌《いや》で御座いますよ先生。私がまだ十一か十二の時に、両親の病気を介抱しいしいコチラの遊廓で辻占を売っておりました時分に……」
「アッ。君はあの時の孝行娘さんかえ。これあ驚いた。そういえばどこやらに面影が残っている。非道《ひど》いお婆さんになったもんだね」
「まあ。お口の悪い……でも先生はあの時からチットも御容子《おようす》がお変りになりませんわね。昔の通りのお姿……」
「アハハ。貴様の方がヨッポド口が悪いぞ。変りたくとも変れねえんだ」
「アラ。そんな事じゃ御座いませんわ」
「おんなじ事じゃないか」
「……でも、そのお姿を見ますとあの時の事を思い出しますわ。『ウーム。貴様が新聞に出ていた孝行娘か。こっちへ来い。美味《うま》いものを喰わせてやる』と仰言《おっしゃ》って、お煙草盆に結《ゆ》った私の手をお引きになって、屋台のオデン屋へ連れてってお酌をおさせになるでしょう。それから私の手をシッカリ掴んで廓の中をよろけ廻りながら御自分で大きな声をお出しになって『河内《かわち》イ――瓢箪山《ひょうたんやま》稲荷《いなり》の辻占ア――ッと……ヤイ。野郎……買わねえか』と云う中《うち》に通りすがりの御客を、お捕まえになるでしょう。あんな怖い事は御座いませんでしたわ。『何をパチクリしていやがるんだ篦棒《べらぼう》めえ。マックロケのケエの手習草紙みたいな花魁《おいらん》の操《みさお》に、勿体ない親御様の金を十円も出しやがる位なら、タッタ二銭でこの孝行娘の辻占を買って行きやがれ。ドッチが無垢《むく》の真物《ほんもの》だか考えてみろ。ナニイ、五十銭玉ばっかりだア。嘘を吐《つ》け。蟇口《がまぐち》を見せろ。ホオラ一円札があるじゃないか。コイツを一枚よこせ。釣銭なんかないよ。お釣が欲しかったら明日《あした》の朝、絹夜具の中で花魁から捻《ね》じ上げろ。ナニ、高価《たけ》え?……シミッタレた文句を云うな。勿体なくも河内瓢箪山稲荷の辻占だ。罰が当るぞ畜生。運気、縁談、待人、家相、病人、旅立の吉凶《よしあし》、花魁の本心までタッタ一円でピッタリと当る。田舎一流|拳骨《げんこつ》の辻占だ。親の罰より覿面《てきめん》にアタル……この通り……ポコーン……』とか何とか仰言って、買ってくれた人の横ッ面《つら》を……」
「ハハハ。そんな事があったっけなあ。酔払っていたものだから忘れてしまったわい」

     支那料理

「あれから私いろいろと苦労致しましたわ。両親に死別れてから芸妓《げいしゃ》になったり、落語家《はなしか》の兄さんとくっ付いて料理屋を始めたり、それから上海に渡って水商売をやったりして、いくらか大きく致しておりますうちに、上海の戦争で亭主の行方がわからなくなりますし、御贔屓《ごひいき》の旦那様からは見放されるしでね。いくらかスコ焼けになりまして……先生にお隠ししたって始まりませんから、真実《ほんと》のところを申上げるんですけど……私を見放した人には怨《うら》みが残っておりますし、ここに居ります娘さん達が、私から離れませんものですから、一つ乗るか反《そ》るかで日本へ帰りまして、やっと二三箇月前にこんな横ッチョへ店を開きましたのに、モウ先生がお出で下さるなんて縁起がいいどころじゃ御座いませんわ。あたしゃ嬉しくって嬉しくって、胸がモウ一パイ……」
 と云ううちに吾輩の胸へ縋《すが》り付きメソメソ泣き出した。
「いい加減にしろよ。若い女たちが見てるじゃないか。モウ一遍俺の手に縋って辻占を売りに出る年でもあるめえ」
「……これからもドウゾこの店の事を、よろしくお頼み申上ます……誰も……どなたも……相談相手になって下さる方がないのですから」
「フウム、成る程。そういえば何もかも新しいようだナ。何だってコンナ処に支那料理屋なぞ作ったんだ」
「ホホホ。恐れ入ります。どうも表通りにはいい処が御座いませんので、それに支那料理なんて申しますと、どうも横町じみた処が繁昌いたしますようで……」
「イカニモなあ、ところでホントに支那料理が在るのか」
「オホホ。御冗談ばかり。チャント御座いますわ」
「怪しいもんだぜ。真昼間《まっぴるま》、表を閉めて、女将さんが二階でグウグウ午睡《ひるね》をしている支那料理といったら大抵、相場はきまってるぜ」
「ホホ。相変らずお眼鏡で御座いますわねえ。どうぞ御遠慮なく御贔屓に……ヘヘヘヘ……」
「変な笑い方をするなよ。今日は飯を喰いに来たんだ。腹が減って眼が眩《くら》みそうなんだよ」
「……まあ……気付きませんで……御酒《ごしゅ》はいかが様で……」
「サア。酒を飲むほど銭《ぜに》があるかどうか」
「ホホホ。御冗談ばかり。いつでも結構で御座いますわ。見つくろって参りましょうね」
「ウム。早いものがいいね。それから今のお嬢さん達もこっちへ這入って火に当らせたらどうだい。相手は俺だから構うことはない。裸体《はだか》ズレがしているルンペン様だから恥かしい事はないよ。素裸体《すっぱだか》の方が気楽でいいんだ。序《ついで》に生命《いのち》の洗濯をさしてやろう。面白い話があるんだから……」
「オホホ。あの子たちは今日お天気がいいもんですから、お客の少ない昼間のうちに申合せて着物のお洗濯をしているのですよ。その着換えが御座いませんので、仕方なしにゆもじ一つでストーブへ当っておりますところへ、先生が入《い》らっしたもんですから、ビックリして逃げて行ったので御座いますよ。ホホホ。でもねえ、まさか先生の前に裸体で出られやしませんからね、若い女ばかりですから……」
「馬鹿云え。先祖譲りの揃いの肉襦袢《にくじゅばん》が何が恥かしいんだ。俺だってこの二重マントの下は褌《ふんどし》一つの素っ裸体なんだぞ。構わないからみんなこっちへ這入らせろ」
「ホホホホホホホホホ。かしこまりました」
 女将は嬌笑しいしいイソイソとコック部屋へ引上げると間もなくポーンと瓦斯焜炉《がすこんろ》へ火の這入る音がした。この家《うち》の支那料理は女将が自身で作ると見える。序《ついで》にヒソヒソと女達へお説教をしている声がハッキリと聞えて来る。
「サアサアみんな先生の処へ行っといで。あの先生を知らないのかい。鬚野先生と云って有名な方だよ。トテモさっぱりしたお方なんだよ。弱い女や貧乏人の味方ばっかりしておいでになる福の神様なんだよ。先生に顔を見覚えて頂くだけでキットいい事があるんだよ」
「だって女将さん……」
「何ぼ何だってこのままじゃあんまりだわ」
 吾輩は隙《す》かさず立上って怒鳴った。
「ナアニ構わん構わん。そのまんまでこっちへ這入れ。お前たちと話してみたいんだ。俺が今引受けている素敵なローマンスの話をして、お前たちの意見を聞いてみたいんだ。這入れ這入れ。這入ってくれ。風邪を引くぜ」
「……ほら……ね。あんなに仰言るんだから構わないんだよ。あの先生は人間離れした方なんだから。恥かしい事なんか無いんだよ」
「さあさあイラハイイラハイ。大人は十銭、子供は五銭、ツンボは無代償《ただ》。吾輩がこれから自作の歌を唄って聞かせる。ルンペンの歌だ。裸ん坊の歌だ。昭和十年の超人の歌だ。エヘンエヘン。さあさあ這入って来たり這入って来たり。
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ああああああああア
歌が聞きたけあア――野原へお出《い》でエ――
青空の歌ア――恋の歌ア――
あああああああア
生命《いのち》棄てたけア――満洲へお出でエ――
遠い野の涯エ――河の涯エ――
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 アハハハハ。どうだい。いい声だろう。出て来なけあ、まだまだイクラでも唄ってやるぞ。ハハハハハ」

 ソッと聞いていた女たちが、一人一人恐る恐る眼をマン丸にして這入って来た。吾輩の歌に感心したらしく、気抜けしたような恰好で、吾輩の周囲《まわり》を取巻きながら、椅子に腰を卸《おろ》した。
 そうして一心に吾輩の姿を見上げている半裸の若い女たちの姿を見まわすと吾輩は、森の妖精《ニンフ》に囲まれた半獣神《パン》みたような気持になった。
「いい声ねえ。おみっちゃん」
「上海《しゃんはい》にだって居ないわ」
「惜しいわねえ。コンナに町をブラブラさして……ホホ」
 ……ソレ見ろ……と吾輩はすこし得意になった。イキナリ椅子から立上って山高帽を冠り直したもんだ。
「エエ。こちらはJORK東京放送局であります。只今……エート……只今午後二時二十七分から、支那料理が出来上ります。空腹のお時間を利用して、昼間演芸放送を致します。演題は『街頭歌二曲』、最初は野尻雪情《のじりせつじょう》氏作『銀座の霧』、次は南原黒春《みなみはらこくしゅん》氏作『赤い帽子』、デタラメ・レコード会社専属鬚野房吉氏作曲、自演……了々軒ストーブ前から中継放送……誰だい手をタタク奴は。
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   銀座の霧
夜の銀座にふる霧は ほんに愛《いと》しや懐かしや
敷石濡らし灯《ひ》を濡らし 可愛いあの娘《こ》の瞳《め》を濡らす
夜の銀座にふる霧は ほんに嬉しや恥かしや
帽子を濡らし靴濡らし 握り合わせた手を濡らす

   赤い帽子
この世は枯れ原ススキ原 ボーボー風が吹くばかり
赤い帽子を冠ろうよオ――
赤い帽子が真実《ほんとう》の タッタ一つの泣き笑い
道化踊りを踊ろうよオ――
ああくたびれた」
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「お待遠《まちどお》様。やっとお料理が出来ました。御酒《ごしゅ》は何に致しましょうか。老酒《ラオチュ》、アブサン、サンパンぐらいに致しましょうか」
「ウワア。そんなに上等の奴はイカン。第一|銭《ぜに》が無い」
「オホホ。恐れ入ります。御心配なさらなく
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