ヤ、知っているかも知れないが、知っておれば尚更のこと、もうトックの昔に実験にかけて殺してしまっているかも知れない。
 吾輩は思わず急ぎ足になった。タクシー代は勿論、電車賃もない、昨夜《ゆんべ》飲んでしまったんだから……。

     喜劇? 悲劇?

 実にいい天気だった。
 いい天気だと往来を歩いている犬が多いもんだ。そいつを五六匹も攫《さら》って大学へ持って行けば八両や十両の仕事には直ぐになる。行きつけの居酒屋「樽万《たるまん》」で銘酒「邯鄲《かんたん》」の生《き》一本がキューと行ける筈なのに、要らざる処を通りかかって要らざる用事を引受けた御蔭《おかげ》で、千里|一飛《ひとと》び、虎小走り一直線に大学へ行かねばならぬ。
 断髪令嬢が、婚約中の愛人から貰った小犬を、そんな事とは知らない吾輩が攫って大学校の博士の卵に売飛ばしたバッカリに、その断髪令嬢に対して重大な責任が出来てしまった。その小犬を取返して、断髪令嬢の破れかけたハートを修繕しなければならぬ責任を、否応《いやおう》なしに負わされてしまった。しかもその大切な小犬を実験用に買った奴が、その令嬢の愛人の恋仇《こいがたき》と来ている
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