だ。
 のみならず何を隠そう、一個月ばかり前にテル子嬢の大事なフォックス・テリヤを盗んで大学の博士の卵に売付《うりつ》けたのは、誰あろう、この吾輩なのだ。家人の隙《すき》を窺ったものであろう。チョコチョコと門の中から出て来て吾輩に向って尻尾《しっぽ》を振っている可愛らしいテリアに鑑札のないのを見て……この野郎、これくらい立派な家で鑑札を受けていないナンテ手はない、怪《け》しからん野郎だ、引っ攫《さら》ってやれ……といったような気持でポケットに入れたのが吾輩の運の尽きであった。そのテリアたった一匹のために、お人形さんみたいな快活、明敏な令嬢が、破鏡の悲劇に陥ろうとしている。冗談じゃない。この責任が負わずにおられるもんか。
 他人にわかりさえしなければ、どんな事をしてもいいというのが現代の上流社会の紳士道らしいが、吾々の所謂《いわゆる》ルンペン道ではそうは行かん。五千円のダイヤでも無代《ただ》では貰わない。チャンと二銭払うのが屑屋の仁義になっているじゃないか。

     UTA《ウータ》ヤアイ

 世の中に行きがかりぐらい恐ろしいものはない……と吾輩は賑やかな電車通りに出て考えた。井伊の
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