、少々|媚《なま》めかしい声が聞こえて来た。吾輩はバッタリと立止まった。バッタリというのは月並な附け文句ではない。吾輩が立止るトタンに両脚を突込んでいる片チンバのゴム長靴が、実際にバッタリと音を立てたのだ。序《ついで》に水の沁み込んだ靴底に吸付いた吾輩の右足の裏が、ビチビチと音を立てたが、これは少々不潔だから略したに過ぎないのだ。
吾輩は空気抜の附いた流行色の古山高帽を冠《かぶ》り直した。裸体《はだか》一貫の上に着た古い二重マントのボタンをかけた。
通りがかりのルンペンを呼ぶのに最初「サン」附けにして、あとから一段上の先生なんかと二《ふ》た通りに呼分けるなんて油断のならぬ奴だ。況《いわ》んやそれが若い、媚《なま》めかしい声なるに於いてをや……といったような第六感がピインと来たから、特別に悠々と振返った。
それはこの町の郊外に近い、淋しい通りに在る立派なお屋敷であった。主人はこの町の民友会の巨頭株《おおあたまかぶ》で、市会議員のチャキチャキで、ツイ四五週間前のこと、目下百余万円を投じて建設中の、市会議事堂のコンクリートを噛《かじ》り過ぎた酬《むく》いで、赤い煉瓦の法律病院に入院して
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