ってしまった。
部屋の中は天井から床まで赤ずくめで、赤漆塗《あかうるしぬり》の卓が四ツ五ツ排列して在る間に、赤唐紙張《あかとうしばり》の屏風《びょうぶ》が仕切ってある。その片隅の大きな瓦斯暖炉の前の空隙《すきま》に、籐《とう》の安楽椅子が五ツ六ツ並んで、五月だというのに瓦斯の火がドロドロと燃えている。
四壁に沁み込んだ脂肪と薬味の異臭が引切りなしに食慾をそそる。
やっぱり支那料理屋かな。
クシャミ行列
めんくらった吾輩がポカンとなったまま部屋のマン中に突立っていると、奥の方の料理部屋らしい処で声がする。向うでは聞こえないつもりらしいが、よく聞こえる。今の女連中の声だ。
「……表の扉《と》をナゼ掛けとかなかったの」
「困るわねえ。今頃来られちゃ」
「ああ怖かった。まるで熊みたい……ビックリしちゃったわ」
「まだ居るの」
「ええ。あそこに突立ってギョロギョロ睨《にら》みまわしているわよ」
「イヤアねえ。何でしょう、あの人……」
「あれルンペンよ。物貰いよ」
「誰か一銭遣って追払って頂戴よ」
「だってこの恰好じゃ出られやしないわ」
「お神さんどこに居んの」
「二階に午睡《ひるね》してんのよ」
「お初ちゃん呼んで頂戴……一銭遣って頂戴って……ね……」
「早くしないと何か持ってかれるわよ。早くさあ」
と云ううちにミシミシと二階へ上って行く足音がする。
きょうは妙な日だ。
百万長者の娘に平身低頭されて、支那料理屋の女に泥棒扱いにされる。
「ああ寒《さむ》……急に寒くなっちゃった」
「ストーブの傍に居たからよ」
「……おお寒い。風邪を引いちゃった。ファックシン」
「あたしも寒くなっちゃった。ヘキスン……ヘッキスン……」
「ハックシン……フィックシイン。風邪が伝染《うつ》ったよ」
「ファ――――クショォ――ン。ウハァ――クショ――ン……コラ……」
「ホホホ。乱暴な嚏《くしゃみ》ねえ。アンタのは……」
「ああ。涙が出ちゃった」
「まだ洗濯物……乾かないか知ら……」
「一度に洗濯するのは考えもんよ」
「だって隙《ひま》がなけあ仕方がないわ」
「あんまりお天気が良過《よす》ぎたのが悪かったんだわ」
二階から二人ばかり足音が降りて来た。
「呆れたねえ。何故表の扉《と》をシッカリ締めとかなかったの……折角《せっかく》ヒトが良《い》い気持ちで寝てたのに……フィックシイン……」
と云う女将《おかみ》らしい声がして、コック部屋兼帳場の入口の浅黄色の垂幕の蔭から、色の青黒い、眦《まなじり》の釣上った、ヒステリの妖怪《おばけ》じみた年増女の顔が覗いたと思うと、茫然として突立ている吾輩とピッタリ視線を合わせた。
「アラッ……先生じゃ御座いませんの……まあ……お珍らしい……よくまあ」
と云ううちに浅黄色の垂幕を紮《から》げて出て来た。生々しい青大将色の琉球|飛白《がすり》を素肌に着て、洗い髪の櫛巻《くしまき》に、女たちと同じ麻裏の上草履《うわぞうり》を穿《は》いている。コンナ粋な女に識合いはない筈だがと、吾輩が首をひねっているにも拘《かか》わらず、女将は狃《な》れ狃れしく近寄って来て、溢《あふ》るるばかりの愛嬌を滴《したた》らしながら椅子をすすめた。
拳骨辻占
「まあ……どうも飛んだ失礼を致しまして……場所慣れない若いものばかりなもんですから……お見外《みそ》れ申しまして……さあどうぞ……ほんとにお久し振りでしたわねえ。御無沙汰ばかり……」
「馬……馬鹿云え。お珍らしいって俺あ初めてだぞ。お前みたいな人間には生れない前から御無沙汰つづきなんだぞ……テンデ……」
「オホホホホホホホ……」
女将の嬌笑が暗い部屋に響き渡った。その背後《うしろ》の浅黄幕《あさぎまく》の間から、ビックリ人形じみた女たちの顔が、重なり合って覗いている。
「オホホホ……恐れ入ります。まったくで御座いますよ先生。この町中の水物屋《みずものや》で、先生のお顔を存じ上げない者は御座いませんよ」
「ハハア。俺に似た喰逃《くいにげ》の常習犯でも居るのか……」
「まあ、御冗談ばかり……それどころでは御座いませんよ先生。先生のお払いのお見事な事は皆、不思議だ不思議だって大評判で御座いますよ」
「ううむ。扨《さて》は夜稼《よかせ》ぎ……という訳かな」
「そればかりでは御座いませんよ。いつも一杯めし上ると声色《こわいろ》使いや辻占《つじうら》売り、右や左なんていう連中にまで、よくお眼をかけ下さるので、そのような流し仲間では先生のお姿を拝んでいるので御座いますよ。先生は福の神様のお生れ変りで、いつもニコニコしておいでになるから縁起《えんぎ》がよいと申しましてね。どこの店でも心の中で先生のお出でを願っているので御座いますよ先生……」
「……ああ、いい気持ちだ。汗ビッシ
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