猫が二三匹ハヤテのように外へ飛出した。
 吾輩はその猫と一緒に動物飼養場を飛出した。
 アトから聞いたところによると羽振学士は、大切な鼻の骨が砕けて重態に陥ったので、早速、直ぐ近くの大学耳鼻科へ担《かつ》ぎ込んで、お手の物で修繕したので、間もなくモトの鼻以上の立派な鼻をオッ立ててピンピン歩き出したという事であるが、考えてみると殴った場所が悪かった。モット取返しの附かない処で、鼻柱を引っ剥《ぺが》しておけばよかった。アンナ卑怯な奴が博士になったら何をするかわからない。

     街頭劇名監督

 少々荒療治ではあったが山木断髪令嬢の愛犬|UTA《ウータ》を中心として渦巻くピンク色ローマンスの半分は、これで片付いたようなもんだ。
 吾々のルンペン道は甚だ簡明|直截《ちょくせつ》である。
 名誉や金銭に縛られて心にもない妥協をしたり苟合《こうごう》したり、腐敗したり、堕落したりして、純真な恋を踏み蹂《にじ》ったり、引歪《ひきゆが》めたり、売物買物にしたりする紳士淑女たちの所謂《いわゆる》、社交道徳なんていうものとは根柢《シキ》が違うんだ。アッパカットか……キッスか……この二つ以外に行く道はないんだ。天道様《てんどうさま》と青天井以外に頭を下げる者がないから自然、物事がそうなるんだ。清浄潔白なもんだ。
 吾輩はそうしたルンペン道の代表者である。ユキアタリ・バッタリ映画、オール・トーキー、天然色、浮出し、街頭ローマンスの名監督である。純真|生一本《きいっぽん》の恋以外には取上げない運命の神様である。だからその純真生一本の盲目の恋だったらイツ何時《なんどき》でも引受る。身分が何だ。財産が何だ。名誉が何だ。そんなものは犬に喰われろだ。丸裸になって青天井の下で抱き合えだ。……アハハハハ……と笑い出したら、そこいらで遊んでいた子供連がバラバラと軒の下へ逃込んだ。アハハ。少々キチガイじみていたかな。

     裸体女四五人

 ところで少々腹が北山になって来た。どこかで飯を喰って、将来の方針をトックリと一つ考えてみる事にしよう。何をいうにも羽振学士をナグリ飛ばして、肝腎カナメのUTA《ウータ》を放《ほ》ったらかして万事を絶望状態に陥れて来たばかりのところで、将来の筋書がまだチットモ出来ていないんだから困る。野球なら満塁《フルベース》ツースリーというところだろう。ここで飯を喰って考えなくちゃ嘘だ。
 篦棒《べらぼう》めえ、キチガイだって腹は減るんだ。猿の出世したのが人間で、人間の立身したのがキチガイで、キチガイの上が神様なんだから、まだ全智全能とまでは行きかねる吾輩だ。腹が減って相談相手が欲しくなるのは当り前だ。
 どこか美味《うま》そうな安いものを売っている店はないか知らんとそこいらを見まわしたが、何しろ学校の近くだから見渡す限り本屋、文具屋、牛乳店、雑貨商みたいなものばかりだ。腹の足しになりそうな店なんか一軒もない。
 ところがそこから二三十歩あるく中《うち》に……見付かった。狭い横路地のズッと奥の行止りの処に赤い看板が見える。近寄ってみると真赤な硝子《がらす》に金文字で「御支那料理」「上海亭《シャンハイてい》」と書いて在る。どうせインチキの支那料理だろうと思って近寄ってみると豈計《あにはか》らんや、インチキでない証拠に、店の張出し窓の処にワンタン十銭、シウマイ十銭、チャアシュウ十銭、支那ソバ五十銭と書いた木札を立てて実物が陳列して在る。その上の棚に色んな形の洋酒の瓶がズラリと並んでいるが、コイツも本物とすれば大したものだ。
 吾輩の咽喉《のど》がキューと鳴った。先ず劈頭《へきとう》のヒットを祝するつもりで一杯傾けるかナ。
 表の硝子扉《がらすど》を押して中に這入ると真暗だ。おまけにシインとしていて鼠一匹動かない。コンナ飲食店はお客が這入ると直ぐに黄色い声で「イラッシャイ」と来ないと這入る気にならないもんだ。ドンナ名医でも病室に這入ると直ぐに「イカガデス」とニッコリしない奴は、病人の方でホッとしないもんだ……何《なん》かと考えながらアンマリ静かなので不思議に思って、直ぐ横の自由|蝶番《ちょうつがい》になった扉をグーッと押開くと驚いた。
 瓦斯《がす》ストーブの臭気が火事かと思うほどパアッと顔を撲《う》った。
 同時に耳の穴に突刺さるような超ソプラノが、一斉に「キャーッ」と湧起《わきおこ》ったと思うと、若い女の白い肉体が四ツ五ツ、揚板をメクられた溝鼠《どぶねずみ》みたいに、奥の方へ逃込んで行った。
 お客様を見てキャーッと云う手はない。しかもダンダン暗がりに慣れて来た眼でそいつ等の後姿を見ると、揃いも揃った赤い湯もじ一貫の丸裸体《まるはだか》で髪をオドロに振乱しているのには仰天した。真昼《まっぴる》さ中《なか》から化物屋敷に来たような気持にな
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