犬が欲しいんか」
 まさかと思って冷やかし半分に、そう云ってみたのであったが、案外にもお合羽《かっぱ》さんが、如何にも簡単にうなずいた。
「ええ……そうなんですの」
「ほオ――オ。お前が動物実験をやるチウのか」
「……アラ……そうじゃないんですの……」
「ふむ。どんな犬が欲しい」
「それが……あの。たった一匹欲しい犬があるんですの」
「ふむ。どんな種類の……」
「フォックス・テリヤなんですの。世界中に一匹しか居ない」
「ウワア。むずかしい註文じゃないか」
「ええ。ですからお願いするんですの」
「ふうん。どういうわけで、そんなむずかしい仕事を吾輩に……」
「それにはあの……ちょっとコミ入った事情がありますの。ちょっとコチラへお這入《はい》りになって……」
 と云ううちにイヨイヨ真赤になった。今度は平仮名の「く」の字から「し」の字に変った。打棄《うっちゃ》っておくと伊呂波《いろは》四十八文字を、みんな書きそうな形勢になって来たのには、持って生れたブッキラ棒の吾輩も負けちゃったね。今に「へ」の字だの、「ゑ」の字だのを道傍《みちばた》で書かれちゃ大変だと思ったから、悠々と帽子を取って一つ点頭《うなず》いてみせると、お合羽さんは振袖を飜えして門の内へ走り込んだ。お尻の上の帯をゆすぶりゆすぶり玄関の扉《ドア》を開いて、新派悲劇みたいな姿態《ポーズ》を作って案内したから吾輩も堂々と玄関のマットの上に片跛《かたびっこ》の護謨《ゴム》靴を脱いで、古山高帽を帽子掛にかけた。お合羽さんが自分の草履と、吾輩の靴を大急ぎで下駄箱に仕舞うのを尻目に見ながら堂々と応接間に這入った。
「失礼じゃがマントは脱がんぞ。下は裸一貫じゃから」
「ええ。どうぞ……」

     廃物豪華版

 応接間の構造は流石《さすが》に当市でも一流どころだけあって実に見事なものであった。天井裏から下った銀と硝子《ガラス》の森林みたような花電燈。それから黒|虎斑《ぶち》の這入った石造の大|煖炉《だんろ》。理髪屋式の大鏡。それに向い合った英国風の風景画。錦手大丼《にしきでおおどんぶり》と能面を並べた壁飾《かべかざり》。その下のグランド・ピアノ。刺繍の盛上った机掛。黄金の煙草容器。銀ずくめの湯の音をジャンジャン立てているサモワルに到るまで、よくもコンナに余計な品物ばかり拾い集めたものである。乞食の物置小屋じゃあるまいし……とすっかり軽蔑してしまったが……もっとも余計な品物を持っている点に於ては吾輩も負けないつもりだ。冠っている山高から、ボロ二重マント、穿いている長靴は勿論の事、その中に包まれている吾輩、鬚野房吉博士の剥身《むきみ》に到るまで一切合財が天下の廃物ならざるはなし。コンナ豪華な応接間の緞子《どんす》と真綿《まわた》で固めた安楽椅子の中に坐らせるのは勿体ないみたいなもんだが、しかし、その贅沢品の豪華版の中から生まれ出たような断髪の振袖令嬢が、その廃物ずくめのルンペンおやじに、大切な用があると仰言《おっしゃ》るんだから世の中は不思議なもんだ。一つ御免蒙って御神輿《おみこし》を卸《おろ》してみよう。そうして銀のケースの中から葉巻《ハヴァナ》を一本頂戴してみる事にしてみよう。
 断髪令嬢が素早く卓上のライタを取上げて器用に火をつけてくれた。その物腰をみるとチョット珈琲店《カフェー》の女給さんみたいな気がして、手が握りたくなったが止した。
 それから断髪令嬢は卓上のサモワルから馴れた手附で珈琲《コーヒー》を入れて、吾輩にすすめてくれたが、その容器を見ると、ここが断然カフェーでない事を覚らせられた。そこいらにザラにある珈琲茶碗じゃない。舶来最極上の骨灰[#「骨灰」に傍点]焼だ。底を覗いてみると孔雀型の刻印があるからには勿体なくもイギリスの古渡《こわた》りじゃないか。一つ取落しても安月給取の身代ぐらいはワケなく潰《つぶ》れるシロモノだ。吾輩はルンペンではあるが、有閑未亡人の侍従《ハンドバッグ》をやっていたお蔭でソレ位のことはわかる。亜米利加《アメリカ》の名探偵フィロ・ヴァンスみたいな半可通《はんかつう》とはシキが違うんだ。
「……わたくし……父が御承知の通りの身の上で御座いまして……わたくし迄も世間から見棄てられておりまして……お縋《すが》りして御相談相手になって下さるお方が一人も御座いませんの」
「フムフム……尤《もっと》もじゃ」
「みんな世間の誤解だから、心配する事はないと、父は申しておりますけど……」
 吾輩は鷹揚《おうよう》にうなずいて見せた。誤解にも色々ある。とんでもない売国奴が、無二の忠臣と誤解されている事もあれば、純忠、純誠の士が非国民と間違えられる事もある。警察に引っぱられたカフェーの女給が、華族の令嬢に見られる事もあれば、いい加減な派出婦が万引したお蔭で、貴婦人と間違えら
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