グの中には銭なんか一文も無《ね》えや。若い男の写真ばっかりだ。ウワア……変な写真が在ライ」
と云いも終らぬうちに塵埃《ほこり》だらけになって転がっていた狸婦人が鞠《まり》のように飛上った。茶目小僧の手から銀色のバッグを引ったくるとハンカチで鼻を押えたまま一目散に電車道を横切って、向うの角のサワラ百貨店の中に走り込んで行った。アトから犬が主人の一大事とばかり一直線に宙を飛んで行ったが、その狸婦人の足の早かったこと……。
野次馬がドッと笑い崩れた。
「ナアンダイ。聞いてやがったのか」
「向うの店で又引っくり返《けえ》りゃしねえか」
「行って見て来いよ。小僧。引っくり返《け》えってたらモウ一度バッグを開けてやれよ。中味をフン奪《だ》くって来るんだ。ナア小僧……」
「なあんでえ。買わねえ薬が利いチャッタイ」
ワアワアゲラゲラ腹を抱えている中を、吾輩は悠々と立去った。全く助かったつもりでね。
ところが助かっていなかった。女の一念は恐ろしいもんだ。それから間もなくの事だ……。
混凝土《コンクリート》令嬢
「アラッ。鬚野《ひげの》さん……鬚野先生……センセ」
どこからか甲高い、少々|媚《なま》めかしい声が聞こえて来た。吾輩はバッタリと立止まった。バッタリというのは月並な附け文句ではない。吾輩が立止るトタンに両脚を突込んでいる片チンバのゴム長靴が、実際にバッタリと音を立てたのだ。序《ついで》に水の沁み込んだ靴底に吸付いた吾輩の右足の裏が、ビチビチと音を立てたが、これは少々不潔だから略したに過ぎないのだ。
吾輩は空気抜の附いた流行色の古山高帽を冠《かぶ》り直した。裸体《はだか》一貫の上に着た古い二重マントのボタンをかけた。
通りがかりのルンペンを呼ぶのに最初「サン」附けにして、あとから一段上の先生なんかと二《ふ》た通りに呼分けるなんて油断のならぬ奴だ。況《いわ》んやそれが若い、媚《なま》めかしい声なるに於いてをや……といったような第六感がピインと来たから、特別に悠々と振返った。
それはこの町の郊外に近い、淋しい通りに在る立派なお屋敷であった。主人はこの町の民友会の巨頭株《おおあたまかぶ》で、市会議員のチャキチャキで、ツイ四五週間前のこと、目下百余万円を投じて建設中の、市会議事堂のコンクリートを噛《かじ》り過ぎた酬《むく》いで、赤い煉瓦の法律病院に入院して、新聞と検事に背中をたたかれたたかれ財産と臓腑の清算、尻拭い中である。その奥さんは、その亭主の尻拭い紙である色々な重要書類を紛失したのを苦にして、発狂して死んでしまった……と云ったら誰でも「ああ。あの混凝土《コンクリート》野郎か」と云うであろう。
その混凝土《コンクリート》氏こと、山木《やまき》勘九郎氏邸の前を通ると、鬱蒼《うっそう》たる樫《かし》の木立の奥に、青空の光りを含んだ八手《やつで》の葉が重なり合って覗いている。その向うにゴチック式の毒々しい色|硝子《ガラス》を嵌《は》め込んだ和洋折衷の玄関が、贅沢にも真昼さなかから電燈を点《つ》けて覗いているもう一つ向うに、コンクリートの堂々たる西洋館が聳《そび》えているところを見ると、如何にも容易ならぬ金持らしい。ちょっと忍び込んでみたくなる位である。多分、あの樫の木の闇《くら》がりが御自慢なのであろうが、混凝土《コンクリート》を喰った証拠に混凝土《コンクリート》の家を建てるのはドウカと思う。……なぞと詰まらない反感を起しながら門の前を通り過ぎようとしているところへ、その鬱蒼たる樫の木闇《こくら》がりの奥から聞こえたのが今の呼声だ。
コンナ立派な家の中から、あんな綺麗な声で呼ばれるおぼえは無い。間違いではなかったかなと思っているところへ、門の中から花のような綺麗な、お嬢さんの姿があらわれた。
年の頃十八九の水々しい断髪令嬢だ。黒っぽい小浜縮緬《こはまちりめん》の振袖をキリキリと着込んで、金と銀の色紙と短冊の模様を刺繍した緋羅紗《ひらしゃ》の帯を乳の上からボンノクボの処へコックリと背負い上げて、切り立てのフェルト草履の爪先を七三に揃えている恰好は尋常の好みでない。眼鼻立《めはなだち》が又ステキなもので、汽船会社か、ビール会社のポスター描《か》きが発見したら二三遍ぐらいトンボ返りを打つだろう。
そいつがニッコリ笑うには笑ったが、よく見ると顔を真赤にして眼を潤《うる》ませている。まさか俺に惚れたんじゃあるまいが……と思わず自分の顔を撫でまわしてみたくらい、思いがけない美しい少女であった。
「何だ……吾輩に用があるのか」
「……エ……あの。ちょっとお願いしたい事が御座いますの」
と云ううちに、しなやかな身体《からだ》をくねくねという恰好にくねらせた。しきりに顔を真赤にして自分の指をオモチャにしている。
「……ハハア。
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