ったセパードは、まだ貴婦人のお尻の処を嗅ぎまわってドッチ附かずに吠えている。
「どうしたんだ。ヘタバッたのかい」
「ナアニ。鼻が千切《ちぎ》れたんだよ。キット……俺あ見てたんだが」
「ベリベリッと音がしたじゃねえか。助からねえよ。急所だから……トテモ……」
何かと云っているところを見ると野次馬の連中も巡査と同感らしい。人生貴婦人となる勿《なか》れだ。
しかし厳正なる医師の立場に居る吾輩は、遺憾ながら運転手君に味方しなければならない事をこの時、既に既に自覚していた。貴婦人は最早《もはや》、呼吸《いき》を吹返している。ただキマリが悪いために狸の真似をしている事実を、吾輩はチャンと診断していたのだから止むを得ない。
吾輩はダカラ勿体《もったい》らしく咳払いを一つした。
「……エヘン……これは大丈夫助かります。大急ぎで手当をすればね。脳貧血《ヒルンアネミー》と、脳震盪《ゲヒルンエルシュテルンシ》が同時に来ているだけなんですから……」
「何かね。君は医師かね」
と新米らしい交通巡査が吾輩を見上げ見下した。吾輩は今一つ……エヘン……と大きな咳払いをした。それから悠々と長鬚を扱《しご》いて見せた。
「そうです。大学の基礎医学で仕事をしている者です。天狗猿……イヤ。鬼目教授に聞いて御覧になればわかるです。……そんな事よりも早くこの女の手当をした方がいいでしょう。今、処方を書いて上げますから……誰か紙と鉛筆を持っておらんかね」
「ハ。……コ……ここに……」
と云ううちにドッジの運転手が、わななく手で差出した手帳の一枚を破いた吾輩は、サラサラと鉛筆を走らせた。
「早くこの薬を買って来たまえ。間に合わないと大変な事になるぞ」
「……か……かしこまり……」……ました……と云わないうちに運転手はエンジンをかけたままの運転台に飛乗った。アッという間に全速力《フルスピード》をかけて飛出した。
チャッカリ小僧
「……ウヌ……逃げたナ……」
と云ううちに交通巡査も、物蔭《ものかげ》に隠しておいた自働自転車を引ずり出して飛乗った。爆音を蹴散《けち》らして箱自動車《セダン》の跡を追った。見る見るうちに街路《まち》の向うの……ズウット向うの方へ曲り曲って見えなくなってしまった。
呆気《あっけ》に取られて見送っていた野次馬連は、そこでやっと吾に帰ったらしく、顔を見合わせてゲラゲラ笑い出した。吾輩も可笑《おか》しくなったので、血を滴《た》らし始めている貴婦人の鼻の頭を、運転手が置いて行った小さなノートブックの間から出て来た二三枚の名刺で押えてやりながらアハアハアハと笑い出した。
「奥さん奥さん。いい加減に起きて歩いたらどうです。いつまでもここに寝てたって際限がありませんよ」
と片手で貴婦人の肩を揺り動かしてみた。
「無理だよソレア……先生。死んでんだもの……」
皆がドッと笑い出した。貴婦人の両眼から涙がニジミ流れ始めた。人生コレ以上の悲惨事は無い。自分の死骸に対して世間の同情が全く無い事を知った美人の気持はドンナであろう。どうも弱った事になって来た。そのうちにどこかの茶目らしいクリクリ頭に詰襟服の小僧が、群集の背後《うしろ》から一枚の紙片《かみきれ》を拾って来て、吾輩の眼の前に突出した。
「先生。これあ今の紙じゃないですか」
「ウン吾輩が書いてやった処方だ。運転手が逃げがけに棄てて行ったものらしいな。交通巡査は流石《さすが》に眼が早い」
「だって先生。名刺の挟まったノートを落して行ったんじゃ何にもならないでしょう」
鳴りを鎮《しず》めていた群集が又笑い出した。
「ウーム。豪《えら》いぞ小僧。今に名探偵になれるぞ」
「……そ……そんなんじゃありません」
「そんなら済まんがお前、その薬を買って来てくれんか。そこに落ちているこの奥さんのバッグに銭《ぜに》が這入《はい》っているだろう」
「だって……だって。そんな事していいんですか」
「構わないとも。早く買って来い。奥さんが死んじゃうぞ」
と背後《うしろ》の方から野次馬の一人が怒鳴った。しかし小僧はなおも躊躇した。
「ちょっと待って下さい。何と読むんですか。この最初の字は……」
「うん。それはトンプクと読むんだ」
「トンプク……ああわかった。頓服《とんぷく》か……ええと……メートル酒十銭……」
「馬鹿。メントール酒と読むんだ。早く行かんか」
「待って下さい。薬屋で間違うといけねえから、その次は?」
「ナカナカ重役の仕込みがいいな貴様は……チャッカリしている。それは硼酸軟膏《ほうさんなんこう》と万創膏《ばんそうこう》と脱脂綿だ。薬屋に持って行けばわかる。早く行け、この奥さんの鼻の頭に附けるんだ」
「オヤオヤア。いけねえいけねえ。これあ駄目ですよ先生……」
「何が駄目だ」
「チャアチャア。このバッ
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