れる事もある世の中だ。吾輩なんかは乞食以下の掻攫《かっさら》いルンペンと誤解されている世界的偉人だ……と云ってやりたかったが、折角、花のような姿をして葉巻《ハヴァナ》や珈琲を御馳走してくれるものを泣かしても仕様がないと思って黙っていた。
「世間ではナカナカそう思ってくれないので御座いますの」
 吾輩は今一つうなずいた。そう云う令嬢の眼付を見ると、どうやら父親の無罪を確信しているらしい態度《ようす》である。吾輩はグッと一つ唾液《つば》を嚥《の》み込んだ。
「いったいお前の父親は、ほんとうに市会議事堂のコンクリートを噛《かじ》ったんか」
「いいえ。断然そんな事、御座いません。この家《うち》を建てた請負師の人が、偶然にかどうか存じませんが、市会議事堂を建てた人と同じ人だったもんですから、そんな誤解が起ったんです。ですから妾《わたし》、口惜《くや》しくって……」
「成る程。そんならお前の父親が、この家の建築費用をチャント請負師に払うた証拠があるんかね」
「ええ。御座いましたの。そのほかこの応接間の品物なんかを買い集めた支払いの受取証なぞを、みんな母が身に着けて持っていたので御座いますが、それがどこかで盗まれてしまいまして、その受取証や何かがみんな反対党の人達の手に渡ったらしいんですの。ですから反対党の人達は大喜びで、そんな受取証を握り潰しておいて、父がそんなものを賄賂《わいろ》に貰ったように検事局に投書したらしゅう御座いますの。ですから検事局でも、その受取証を出せ出せって責められたそうですけど、父はその事に就いて一言も返事をしなかったもんですから、とうとう罪に落ちてしまいました」
「成る程、わかった。堕落した政党屋の遣りそうな事だ」
「父は、それですから、母にその証文を入れたバッグを出せ出せって申しますけども、どうしても母が出さなかったので御座います」
「成る程。それは又おかしいな」
「ええ。でもおしまいには、とうとう母が白状致しましたわ。亡くなります二三日前の晩に、すこし気が落ち附きますと、それまで肌《はだみ》を離さずに持っていたバッグを父に渡しました。けれども中味は空《から》っぽで御座いました。その時から一週間ばかり前にどこかで自動車に突飛ばされて倒れた拍子に、そのバッグの中味を誰かに見られて奪《と》られてしまったらしいんですって……その人が反対党の手先か何かだったに違いないって母は申しておりましたが……ほんとに申訳ない、口惜しい口惜しいって申しておりましたが……」
 そう云って吾輩を見上げた令嬢の眼に一点の露が光った。ナカナカ親孝行な娘だ。今度は抱上げて頭を撫でてやりたくなった。
「そこでアンタはそのお父さんに対する世間の誤解を晴らそうと思うているわけじゃね」
「そうなんですの……駄目でしょうかしら……」
 なかなか大胆な娘らしい。決心の色を眉宇《びう》に漲《みなぎ》らしている。

     犬のダニ

「さあ。ちょっとむずかしいなあ。世間の誤解という奴は犬のダニみたいなものじゃから……」
「まあ……犬のダニ……」
「そうじゃ。犬のダニみたいに、勝手に無精生殖をしてグングン拡がって行くもんじゃからね。皮膚の下に喰込んで行くのじゃから一々針で掘った位じゃ間に合わんよ。ウッカリ手を出すとこっちの手にダニがたかって来る」
「まったくですわねえ」
「ジャガ芋の茹《ゆ》で汁で洗うと一ペンに落ちるもんじゃが」
「まあ。ジャガ芋をどう致しますの」
「アハハ。それは犬のダニの話じゃ。鉄筋コンクリートなんぞに喰い込んだダニなんちいうものはナカナカ頑強で落ちるもんじゃない。七十五日ぐらいジッと辛抱しているとダニの方がクタビレて落ちてしまう事もあるが……」
「それがその七十五日なんか待ち切れないので御座いますの。その中《うち》でも或るタッタ一人の方の誤解だけは是非とも解いてしまいませんと、わたくしの立場が無くなるんですの。……でも……それがタッタ一匹の犬から起った事なのですから……スッ……スッ……」
 令嬢の眼からポロリポロリと光る水玉が辷《すべ》り落ち初めた。
 どうも考えてみると変った娘があればあるものだ。通りがかりのルンペン親爺《おやじ》を応接間に引っぱり込んで最極上の葉巻《ハヴァナ》と珈琲《コーヒー》を御馳走して、生命《いのち》よりも大切な涙をポロポロ落して見せるなんて、だいぶ常識を外《はず》れている。ことによるとこの少女はキチガイの一種である早発性痴呆かも知れないと思った。
「ハハア。面白いワケじゃな……一匹の犬に関係している。タッタ一人の誤解が……」
「そうなんですの……そのタッタ一人の方に誤解される位なら妾死んだ方がいいわ……スッ……スッ……」
「ちょっと待ってくれい。もうすこし落付いてユックリ事情を話してみなさい」

     お惚気
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