》みたいに真赤で、頭の毛がテリヤみたいに銀色に光っている奴をマン中から房々《ふさふさ》と二つに別けている。太眉《ふとまゆ》が真黒で髯《ひげ》は無い。そいつが鼻眼鏡をかけて白い服を着て、紫陽花の横から半身を乗出したところは何となく妖怪じみている。処女見たいな眼を細くして金歯をキラキラ光らしているから一層、気味が悪い。一見して容易ならぬ学者だという事がわかる。
「……君……一つ頼みたい事があるんだが」
 学者だけに常識が無いらしい。初対面の人間に物を頼むのに、窓越しに頼むという法は無い。吾輩も腕を組んだまま、振返って返事してやった。
「何の御用ですか」
 天狗猿がニッコリと笑った。
「君は実験用の犬屋だろう」
 吾輩は面喰らった。そんな商売が在る事を、その時がその時まで知らなかったもんだから思わず自分の姿を見まわした。成る程、煙突の掃除棒みたいな頭に底の無いカンカン帽を冠《かぶ》っている。右の袖の無い女の単物《ひとえもの》の上から、左の袖の無い男浴衣を重ねて、縄の帯を締めている。河岸の石垣の上から穿《は》いて来た赤い鼻緒の日和下駄《ひよりげた》を穿いているが、これはどうやら身投《みなげ》女の遺留品らしい。成る程、実験用の犬屋というものはコンナ姿のもんかなと思ったから黙ってうなずいた。天狗猿もうなずいてポケットを探りながら半分ばかり残っている朝日の袋とマッチを差出した。
「吸わんかね……君……」
「呉れるんですか」
「うん。君は好きだろう。歯が黒い」
 吾輩は気味が悪くなった。天狗猿の奴、吾輩を呑込んでいるらしい。
「まあ御用を承ってからにしましょう」
「アハハ。恐ろしく固苦しいんだね君は……ほかでもないがね。実は今まで僕の処に出入りしていた実験用の犬屋君が死んじゃったんだ。腸チブスか何かでね。おかげで実験が出来なくなって困っているのは僕一人じゃないらしいんだ。本職の犬殺し君に頼んでもいいんだが、生かして持って来るのが面倒臭いもんだから高価《たか》い事を吹っかけられて閉口しているんだ。君一つ引受けてくれないか。往来から拾って来るんだから訳はないよ。一匹一円平均には当るだろう。猫でもいいんだが……」
「つまり犬殺しの反対の犬生かし業ですね」
「まあ……そういったようなもんだが立派な仕事だよ。往来の廃物を利用して新興日本の医学研究を助けるんだからね。君が遣ってくれないと困るのはこの大学ばかりじゃないんだ。向うの山の中に在る明治医学校でも実験用の動物を分けてくれ分けてくれってウルサク頼んで来ているんだからね。大した国益事業だよ」
 吾輩は天狗猿の口の巧いのに感心した。丸い卵も切りようじゃ四角、往来の犬拾いが新興日本の花形なんだから物も云いようだ。
「やってみてもいいですが、資本が要りますなあ」
「フウン……資本なんか要らん筈だがなあ」
「要りますとも……犬に信用されるような身姿《みなり》を作らなくちゃ……」
「アハハ、成る程……どんな身姿かね」
「二重マントが一つあればいいです。それに山高帽と、靴と……」
「恰度《ちょうど》いい。ここに僕の古いのがある。コイツを遣ろう」
 と云ううちに最早《もう》、古山高と古マントと古靴を次から次に窓から出してくれたので、流石《さすが》の吾輩も少々|煙《けむ》に巻かれた。
「洋傘《こうもり》は要らんかね」
「モウ結構です。先生のお名前は何と仰言《おっしゃ》るのですか」
「僕かね。僕は鬼目《おにめ》という者だ。この法医学部を受持っている貧乏学者だがね」
 吾輩は思わず貰い立ての山高帽を脱いだ。鬼目博士の論文なら嘗《かつ》て亜黎子未亡人の処で読んだ事がある。その頃まで、三十年前頃までは、微々として振わなかった日本の法医学界に、指紋と足痕《あしあと》の重要な研究を輸入した科学探偵の大家だ。
「学界のためだ。シッカリ奮闘してくれ給え。君を見込んで頼むんだ」
「しかし……しかし……」
「しかし何だい。まだ欲しいものがあるかい」
「イヤ、先生はドウして僕が、この仕事に適している事をお認めになったんですか」
「アハハ、その事かい。それあ別に理由《わけ》は無いよ。君の過去を知ってるからね」
「エッ、僕の過去を……」
「僕は度々君の軽業を見た事があるんだよ。君がドコまで不死身なのか見届けてやろうと思ってね。毎日毎日オペラグラスを持って見に行ったもんだよ。だから君があの木乃伊《ミイラ》親爺を殺したホントの経緯《いきさつ》だって知っているんだよ。あの未亡人を爆発させた火薬と、バルチック艦隊を撃沈した火薬が、同しものだってことも察しているんだよ。ハハハ」
 吾輩は聞いているうちに全身が汗ビッショリになった。コンナ頭のいい恐ろしい学者が人間世界に居ようとは夢にも思わなかったので今一度シャッポを脱いで窓の前を退散した。
 人生意気に
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