、百科辞典、歴史、法律書、小説の類が山積していた奴を、吾輩は未亡人との恋愛遊戯の片手間に一字一句残らず暗記してしまったものだ。アベコベに未亡人を手玉に取ってやったワケだね。嘘だというなら大英百科全書《エンサイクロペジヤ・ブリタニカ》のドノ巻のドノ頁の第何行目に、何が書いてあるか質問してみろ。即答して見せるから……。ソレ見ろ……。
 そこで世界の大勢に通じた吾輩は科学なるものに非常な興味を感じたね。早速亜黎子未亡人に甘たれてその図書館の中に立派な実験室を作ってもらった。その実験室で吾輩は超越智《チョウエツチエ》という毛唐人が発見した脂肪の分解剤を逆に分解して、有効成分だけを取出し、そいつを応用して動植物の脂肪や油をドン底まで分析し、ダイナマイトに数十層倍する猛烈な液体火薬を作り出す事に成功した。
 その時は嬉しかったね。まるで世界を征服したような気持だった。あんまり嬉しかったもんだから吾輩はその爆薬の製法を極秘密の中《うち》に日野亜黎の名前で海軍省に投書した後《のち》に、その実際の効果を証明するために、その亜黎子未亡人と合意の上で爆薬情死を企ててやろうと考えたもんだ。むろんその時分には二人とも青春なんかドッカへ行っちゃって貧乏|屑屋《くずや》の股引《ももひき》みたいに、無意味に並んでいるだけの状態だったからね。吾輩の考えなんか知らない未亡人は、今の内閣と政党みたいに心中しましょうよ、しましょうよって毎日毎日うるさく吾輩に甘たれていたもんだから無論、異存は無かったろうよ。そこでその火薬の話を打ち明ける前に、取りあえず骨休めかたがた、吾輩は娑婆《しゃば》の見納めのつもりで或夕方のこと、下町のバアへ一杯飲みに行っているとその留守中に、その実験室が大爆発してしまったのには驚いたね。否《いや》。実験室どころじゃないんだ。二町四方もあるかと思っていた日野家の屋敷内に在る鉄筋|混凝土《コンクリート》の家作と立木なんかが、地の下数千坪の土砂や、女中や、自動車や、未亡人と一緒に大空に吹上げられてしまった……らしいんだ。その時分には酒場でグデングデンになって狸の睾丸《きんたま》の夢か何か見ていたもんだから吾輩は全く知らなかったんだ。
 むろん新聞に出ているよ。君等が生れない前の初号三段抜きだから、今で云ったら号外ものだろう。……亜黎子未亡人の前の夫、日野有三九という男は生前に非道《ひど》い神経衰弱にかかっていた者だが、自分の死後、精力絶倫の亜黎子夫人が必ず不倫の行跡に陥るべきを予想し、嫉妬の念に堪《た》えず、これに対する深刻な復讐の準備を整えていた。すなわち自分の建てた図書館内の豪華を極めた寝室に、自分の死後三年目の或る夜半に相違なく発火するように工夫した精巧な時計仕掛の爆薬を装置していたものであるが、そのような事実を夢にも知らなかった淫婦の亜黎子は、亡夫の予想通りに有名なる曲芸師の不良少年をその室《へや》に引っぱり込み不義の快楽に耽っていた結果、まんまと首尾よく亡夫の詭計《きけい》に引っかかったのが、この大爆発の真相に相違ないのである。敏腕を以て聞こえた当局も、流石《さすが》に斯様《かよう》な超特急の椿事《ちんじ》に遭遇しては呆然《ぼうぜん》として手の下しようもなく……云々……といったような事を筆を揃えて書立てていたが、流石《さすが》の吾輩もこの記事を見た時には文字通り呆然、唖然としてしまったね。日本の新聞記者が、これ程までに素晴らしい創作家だとはこの時まで気が付かなかったからね。
 ……ナアニ……あの実験室に立入る人間は亜黎子未亡人だけだからね。多分、彼女が吾輩の留守中に眼を醒まして、吾輩が作り溜めていた液体火薬に手を触れるかドウかしたんだろう。アルコールに溶いた甘ったるい、赤黄色い火薬を、ベルモットの瓶に詰めて、塩と氷に詰めて冷蔵しておいたんだから、事によると酒と間違えて未亡人が喇叭《ラッパ》を吹いたのかも知れない。そいつが腹の中の体温で発火してアレヨアレヨと驚くトタンに、三町四方の霊魂がフッ飛んだんだから思い残す事は無いだろう。もちろん吾輩もアンナに猛烈な炸裂力を持っていようとは思わなかった。分量が二倍の時には四倍の熱……四倍の時には二百五十六倍の高熱を発する事だけは知っていたがね。アトでその爆発の遺跡《あと》をコッソリと見に行った時には文字通り「人間万事夢だ」と思ったね。直径二三町、深さ二十間ぐらいの摺鉢形《すりばちがた》の穴が残っていただけだからね。それ以来何もかも夢だという事をハッキリ自覚した……女ばかりじゃない。人間万事が何一つ当てにならない事を自覚した吾輩は、越中褌《えっちゅうふんどし》の紐《ひも》が切れたみたいな人間になってしまった。する事|為《な》す事が、一つも手に附かない。面白くも可笑《おか》しくもないが、そうかといって死に
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