「インニャ。殺したオボエは無い」
「この野郎。まだ強情張るか……」
 と云ううちに、青竹が吾輩の横っ腹へピシリと巻付いた。
「警察へ渡す前に親方のカタキを取るんだ。覚悟しろ……」
「何をッ」
 と吾輩は立上った。親方のカタキという一言が吾輩を極度に昂奮させたのだった。
 鞭《むち》だの青竹だの丸太ん棒だの、太い綱だのが雨霰《あめあられ》と降りかかって来る下を潜った吾輩はイキナリ親方の死骸を抱え上げて、頭の上に差上げた。
「サア来い」
 これには一同面喰ったらしい。獲物《えもの》が無いと思ってタカを括《くく》っていた吾輩が、前代未聞のスゴイ武器を振り翳《かざ》したのだからね。一同が思わずワアと声を揚げて後《あと》へ退《さが》った隙《すき》に吾輩は、そこに積上げて在るトランクを小楯に取って身構えた。ドイツコイツの嫌いは無い。一番最初にかかって来た奴を親方の禿頭でタタキ倒おしてやろうと思っているところへ、思いがけない仲裁が現われた。

     未亡人に救われて

 それはこの頃、毎日のように正面の特別席の中央に陣取って、座員全部の眼に付いていたお客で、あれは西洋人だろうか、日本人だろうか……お嬢さんだろうか、それとも奥さんだろうかと問題のタネになっていたシロモノであったが、近付いて来たのを見ると、何というスタイルの洋装か知らないが、その頃では眼を驚かすハイカラであったろう。真赤な血のような色をした下着に、薄い、真黒い上服《うわふく》をピッタリと着込んで、丸い乳と卵型《たまごなり》のお尻をタマラナイ流線型にパチパチと膨《ふく》らましている。それが白い羽根付きの黒いお釜帽《かまぼう》からカールをハミ出させて、白靴下のハイヒールの上にスラリと反《そ》り返って、縁《ふち》無しの鼻眼鏡をかけたところは、ハンカチの箱から脱出《ぬけだ》して来たような日本美人だ。年は二十ぐらいに見えたが、実は二十五か六ぐらいだったろう。見物席からイキナリ駈上《かけあが》って来たらしく頬を真赤にしてセイセイ息を切らしていたが、吾輩が振翳《ふりかざ》している死骸なんかには眼もくれずに、ハンドバッグの中から分厚い札束を掴み出すと、みんなの鼻の先へビラビラさせて見せまわしながら、ニッコリと笑った。銀鈴のような嬌《なま》めかしい声を出したもんだ。
「……サア……皆さん。この坊ちゃんを妾《わたし》に売って頂戴。千円上げます。ちょうど今日中の上り高《だか》ぐらいあるでしょ。親方へ上げる妾の香奠《こうでん》よ。ね……いいでしょ……いけないの……。いいわ。どうしてもこの坊ちゃんを殺すと云うんなら、妾にも覚悟があるわ。御覧なさい。この小ちゃな七連発のオモチャに物を云わせますから……妾はこの坊ちゃんに惚れてるんですからね。そのつもりで話をきめて頂戴……サアサア。警察《サツ》が来ると話が元も子も無くなるわよ。サアサア。早いとこ早いとこ。オホホホホホ」
 みんなこの別嬪《べっぴん》さんに呑まれてしまったらしい。イツの間にかメイメイに持っていた獲物を取落していた。吾輩もソロッと親方の死骸を下して額の汗を拭いていた。
 こうなると話は早い。廿分と経たないうちに、金モール付《つき》赤ビロードの舞台服を着た吾輩は、今の別嬪さんと一緒に、その頃まで絶対に珍らしかった自動車に同乗して、どこか郊外の山道らしい処をグングンと走っていた。つまり吾輩はこの、日野亜黎子《ひのありこ》という金持の未亡人に買取られて、郊外の別荘に匿《かく》まわれて、その未亡人のハンドバッグボーイにまで出世したもんだ。禿頭のオモチャから一躍、別嬪のオモチャにまで出世した訳だね。
 イヤ、出世だよ。たしかに出世だよ。堕落じゃないよ。第一|昨日《きのう》までは毎日何度となくタタキ店の瀬戸物みたいに荒板の上にタタキ付けられていた奴が、今日は正反対に真綿《まわた》ずくめの椅子やクションの上でフワフワフワフワと下にも置かず歓待される訳だからね。人生は京の夢、大阪の夢だ。電光朝露《でんこうちょうろ》応作《おうさ》如是観《にょぜかん》だ。まあ聞け……そんな経緯《わけ》で吾輩は、その未亡人の手に付くと、お母さんだか妹だか訳のわからないステキな幸福に恵まれながら学問を教《おそ》わった。吾輩を立派な青年紳士に仕立てて見せるという未亡人の意気込みでね……何でもその日野亜黎子夫人の旦那様だった男は、日野|有三九《ゆうさく》という名前でチャチな探偵小説を書いて、巨万の富を積んだあげく、妻君の精力絶倫に白旗を揚げたような……そうして揚げたくないような神経衰弱の夢みたいなエタイのわからない遺書を書いてアダリン自殺を遂げた。自分が探偵小説になっちゃったというダラシのない男だったそうだが、そのお庭の片隅に立っている図書館の中には美事な寝室を作って、あらゆる科学書類
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