時はタッタ今の経緯《いきさつ》も何も忘れて、僅かの時間、親方の頭の上で辛抱する気になっていたもんだが、その中《うち》に例の通り、禿頭の上で逆立ちをしてみると……妙だったね。
 その時の気持ばっかりは今から考えてもわからないんだが、アレが魔が差したとでもいうもんだろうかね。ツイ自分の鼻の先に突立っている毛の尖端《さき》を見ると、自分では毛頭ソンナ気じゃないのに、両手がジリジリと縮んで、赤茶色の禿頭肌《はげはだ》が吾輩の唇に接近して来た。そうして、やはり何の気もなく、その禿《はげ》のマン中の黒い毛を糸切歯の間にシッカリと挟んでグイと引抜いたもんだ。
「ギャアッ……ヤラレタッ……」
 と云う悲鳴がどこからか聞こえたように思ったが、全く夢うつつだったね。吾輩の小さな身体が禿頭の上から一間ばかり鞠《まり》のようにケシ飛んで、板張の上に転がっていた。ビックリして跳ね起きてみると、直ぐ眼の前のステージの上に、木乃伊《ミイラ》の親方がステキもない長大な大の字を描いて、眼を真白く剥《む》き出したまま伸びている。ゴロゴロと喘鳴《ぜんめい》を起していたところから考え合わせるとあの時がモウ断末魔らしかったんだがね。
 アトから聞いたところによると、親方の木乃伊《ミイラ》親爺は平生から吾輩を恐ろしい小僧だ恐ろしい小僧だと云っていたそうだ。感化院から出て来たばかりの怪物だから何をするか、わからない奴だ。気に入らないと俺の咽喉笛《のどぶえ》でも何でも啖《く》い切りかねないので、毎日毎日俺に手向い出来ない事を知らせるつもりで、思い切りタタキ散らしてやるんだが、実は恐ろしくて恐ろしくて仕様がないから、ああするんだ……と云っていたそうだが、してみると吾輩が毛の根をチクリとさせたのを親方は、吾輩が例の手で禿頭のマン中へカブリ付いたものと思ったらしいね。その後の医師の診断によると、老人の過労から来る、急激な神経性の心臓|痲痺《まひ》というのだったそうだが、実に意外千万だったね。そんな馬鹿な事がといったって、木乃伊《ミイラ》の親方は、総立ちの見物人と、楽屋総出の介抱と、吾輩の泣きの涙の中《うち》に、ホコリダラケの板張りの上で息を引取ったのだから仕方がない。
 ところで問題は、それからなんだ。楽屋に運び込まれた親方の死骸に取付いてオイオイ泣いているうちに、片っ方で仲間を集めてボソボソ評議していた拳固《げんこ》の梅という奴が、いつの間にか立上って来て、何も知らない吾輩の横っ面《つら》をガアンと一つ喰らわしたもんだ。このゲンコの梅という奴は、ずっと前に大人の力持をやって相当人気を博していたもんだが、アトから来た少年力持の吾輩に人気を渫《さら》われてスッカリ腐り込んでいた奴だ。むろん糞力《くそぢから》がある上に、拳固で下駄の歯をタタキ割るという奴だったから痛かったにも何にも、眼の玉が飛び出たかと思った位だった。だから、いつもの吾輩だったら文句無しに掴みかかるところだったが、親方の死骸を見て気が弱っていたせいだったろう、起上る力も無いまま茣蓙《ござ》の上に半身を起して、仁王立《におうだ》ちになっている梅公のスゴイ顔を見上げた。見ると吾輩の周囲には、梅をお先棒にした座員の一同が犇々《ひしひし》と立ちかかっている様子だ。これは前に一度見た事の在るこの一座のマワシといって一種の私刑《リンチ》だね。それにかける準備だとわかったから、吾輩はガバと跳ね起きて片頬を押えたまま身構えた。
「……ナ……何をするのけえ」
「何をするとは何デエ。手前《てめえ》が親方を殺しやがったんだろう」
「親方の頭のテッペンから血がニジンでいるぞ」
「あしこから小さな毒針を舌の先で刺しやがったんだろう。最前|殴《は》り倒おされた怨《うら》みに……」
「ソ……そんな事ねえ……」
「嘘|吐《こ》け。俺あ見てたんだぞ……」
 吾輩は実をいうとこの時に内心|頗《すこぶ》る狼狽《ろうばい》したね。タッタ今歯で引抜いた黒い毛は、どこかへ吐き出すか嚥込《のみこ》むかしてしまっている。よしんば歯の間に残っていたにしたところが、アンナ黒い毛がタッタ一本、親方の禿頭の中央《まんなか》に生《は》えている事実を知っていたものは、事によると吾輩一人かも知れないのだから、トテモ証拠になりそうにない。のみならずコンナ荒っぽい連中は一旦そうだと思い込んだら山のように証拠が出て来たって金輪際、承知する気づかいは無いのだから、吾輩はスッカリ諦らめてしまった。コンナ連中を片端《かたっぱし》からタタキたおして、逃げ出すくらいの事は何でもないとも思ったが、親方の死骸を見ると妙に勇気が挫《くじ》けてしまった。
「……ヨシ……文句云わん。タタキ殺してくんな。……その代り親方と一所に埋めてくんな」
「……ウム。そんなら慥《たし》かに貴様が親方を殺したんだな」

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