んだから話がヤヤコシイ。首尾よく犬が取返せるか、返せないか。この恋が成立するかしないかという重大な責任が、千番に一番の兼ね合いで、吾輩の双肩にかかって来た訳だ。
 棒も歩けば犬に当るとはこの事だ。
 考えてみると馬鹿馬鹿しい話だ。そんな責任をイケ洒唖洒唖《しゃあしゃあ》と吾輩に負わした彼《か》の断髪令嬢は二三時間前まで、全く見ず識らずの赤の他人だったのだ。ドコの馬の骨だか牛の骨だか、訳のわからない同士だったのだ。人間、返す返すも行きがかりぐらい恐ろしいものは無い。
 探偵小説では偶然の出来事を書くと面白くないというがこれは恋愛物語なんだから構わないだろう。しかも喜劇になるか、悲劇になるかは一に吾輩の手腕一つにかかっているんだから、何の事はない、実物応用の実際小説だ。世界歴史と同様今にドンナ事が始まるかわからない。舞台監督兼主役の吾輩からして一寸先は真暗闇《まっくらやみ》だ。
 先ず断髪令嬢山木テル子の愛人、唖川歌夫の恋敵、羽振キク蔵君にブツカル訳だが、サテ、どんな機嫌様《きげんさま》にぶら下るか……。

     半死の小犬

 サア来た。大学医学部の実験動物飼育室に来た。イヤ、どうも暑いの何のって……二重マントの袖で汗を拭い拭いしてみたが明るい外界からイキナリ、暗い飼育室に来たもんだから梟《ふくろ》みたいに何も見えない。何ともいえない劇毒薬の蒸発するような動物臭が腸《はらわた》のドン底まで沁《し》み込んで行く。世界の終りかと思えるようなエタイのわからない悲鳴が、あとからあとから耳の穴に渦巻き込む。勿体なくも市内第一流の桃色ローマンスの糸の切端《きれはし》がコンナ処に落込んでいようなんて誰が想像し得よう。先《ま》ず一息入れて落付いてみる事だ。
 居る居る。猫だの犬だのモルモットだのがウジャウジャ居る。雛《ひよ》ッ子を育てるような金網の籠に犬は犬、猫は猫と二三匹か四五匹|宛《ずつ》入れた奴がズーッと奥の方まで並んでいる。鶏《にわとり》も居るし小羊も居る。奥の方から羽二重《はぶたえ》を引裂くような声が聞こえる処を見ると、猿を飼っている贅沢な奴が居るらしい。まさか青二才の博士の卵が、猿の睾丸《きんたま》を使って若返り法を研究しているのじゃあるまい。
 そんな動物連中の排泄物や、体臭や、猛烈に腐敗した食餌の落零《おちこぼ》れの発酵|瓦斯《がす》で、気が遠くなるほど臭い上に、
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