でくれ。左様《さよう》なら……」
吾輩は一人で喋舌《しゃべ》りながら慌てて帽子を冠って、長靴を穿《は》いて玄関を飛出した。往来に出て真青な空を仰ぐとホッとした。「アハハハハ……」と思わず一人で高笑いした。冗談じゃない、テル子嬢の母親を殺し、父親を未決監にブチ込んだ人間は誰でもない、この吾輩という事になっているらしい。直接に殺さなくとも責任は十分こっちにあるらしい。母親の云う事はテンヤワンヤのゴチャゴチャだらけであるが、それでも吾輩の笑い顔だけはハッキリと記憶に残して死んでいるらしいのだから頗《すこぶ》る気味が悪い。しかも女というものは、思い違いでも何でも構わない、一度そんな風に思い込んでしまうと、アトでいくら間違っていることが判明《わか》っても決して素直に承認する動物でない。女に思い込まれたのと、暴力団に附け狙われたのと、新聞に書かれたのと、スッポンに喰い付かれたのとは、如何なる場合でも運の尽きである。ありもしない事を勝手に口惜しがって死んだ場合でも、遠慮なく閻魔《えんま》大王から幽霊の鑑札を受けて娑婆《しゃば》に引返して来る位の決心を、女というものはフンダンに持っているのだから厄介だ。
のみならず何を隠そう、一個月ばかり前にテル子嬢の大事なフォックス・テリヤを盗んで大学の博士の卵に売付《うりつ》けたのは、誰あろう、この吾輩なのだ。家人の隙《すき》を窺ったものであろう。チョコチョコと門の中から出て来て吾輩に向って尻尾《しっぽ》を振っている可愛らしいテリアに鑑札のないのを見て……この野郎、これくらい立派な家で鑑札を受けていないナンテ手はない、怪《け》しからん野郎だ、引っ攫《さら》ってやれ……といったような気持でポケットに入れたのが吾輩の運の尽きであった。そのテリアたった一匹のために、お人形さんみたいな快活、明敏な令嬢が、破鏡の悲劇に陥ろうとしている。冗談じゃない。この責任が負わずにおられるもんか。
他人にわかりさえしなければ、どんな事をしてもいいというのが現代の上流社会の紳士道らしいが、吾々の所謂《いわゆる》ルンペン道ではそうは行かん。五千円のダイヤでも無代《ただ》では貰わない。チャンと二銭払うのが屑屋の仁義になっているじゃないか。
UTA《ウータ》ヤアイ
世の中に行きがかりぐらい恐ろしいものはない……と吾輩は賑やかな電車通りに出て考えた。井伊の
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