のだからといって鑑札を受けていなかったのが、運の尽きであったのかも知れない。
 テル子さんはキチガイみたいになった。むろん警察に頼んだ。私立探偵も雇った。自分でも男装して父親のパッカードのオープンを運転しながら、市中を駈けまわって探したものであるが、そのうちに世間の父親に対する憎しみがだんだん高まって来ると、とうとうそのパッカードにまで石を投げる奴が出て来た。しまいには壮士みたいな奴が五六人、大手を拡げて行手に立塞《たちふさ》がったりするようになったので、流石《さすが》の断髪、男装令嬢も門外へ一歩も出られなくなってしまった。おまけに「非国民の断髪令嬢、大威張りでパッカードを乗廻す」という新聞記事で止刺刃《とどめ》を刺されてしまった。
 ところが間もなく更に、それ以上の打撃がテル子嬢の上に落ちかかった。
 その頃既に父親の山木コンクリート氏は、世間の風評に対して極度の神経過敏症に陥っていたらしい。そのUTA《ウータ》が居なくなったのは婚約者の唖川小伯爵がコッソリ盗み出したものに違いないと云い出した。俺みたいな奴の娘を名門の息子が貰う訳に行かないというので、父親の唖川前外相の指令か何かを受けた小伯爵が、人を頼んでか、又は自分自身でか盗み出したものだ。今の華族なんて奴は妙に家柄や何かを振《ふり》まわすが、その振まわす根性といったら実に軽薄なものなんだ。よしんば親は泥棒にしても子供同士は清浄無垢なものなんだ。況《いわ》んや俺の心境は明鏡止水、明月天に在り、水甕《みずがめ》に在りだ。そんな軽薄な奴の息子にかけ換えのないお前を遣る訳に行かん。
 あの医学士の羽振菊蔵《はぶりきくぞう》を見よ。彼奴《あいつ》の親爺《おやじ》の羽振|菊佐衛門《きくざえもん》は貴族院議員のパリパリで、日支銀行の頭取という財界の大立物なんだが、そんな名門|面《づら》を一度もして見せた事がないばかりでない。俺に対する世間の疑惑が高まれば高まるほど熱心に俺の世話をしているだろう。毎日のように俺に秘密の電話をかけて俺を慰めていたではないか。その伜《せがれ》の菊蔵でも同じ事。親の光りで暇潰しの外交官なんかやっている青二才とは育ちが違う。俺の悪評が高くなったこの頃になって平気でお前に婚約を申込んで来るところを見ると相当の苦労人だ。あの男は目下大学で博士号を取る準備をしているそうだから。近いうちに博士になるだろう。
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