差支えないが、悪人の名前にウッカリ実在の名前を使うと意外な結果を招き易い。
 これは架空の話だから御差し合いの方には真平《まっぴら》御免下さいであるが、田中という人物が唾棄すべき悪党であったり、林という美人が自動車に轢《ひ》き潰されたり、中村という先生が八ツ切りにされたりしたら日本中の田中氏、林氏、中村氏は、作者に対して報復しようのない怨恨を抱き、不浄を感じ、嫌悪の情を以て本を投出す虞《おそれ》がある。それ程でなくとも作者として一種の変テコな失礼を四方八方に働らいたような良心的な苛責を感ずる事になるのだからツイ遠慮したくなるのである。

 こうして種々な条件を附けて来ると、創作人物の名前なるものは、いい加減、神経衰弱のタネになるものである。だから私などは今日まで気に入った名前ばかりで一篇を創作した場合は一度もないので、十中八九は、いい加減なところで辛抱して来た場合が非常に多い。
 無責任なようではあるが、そんな風に考えて徹底的に神経衰弱が静まるところまで満足し得る名前を発見しようとしていたら、締切りに間に合わない場合が多いのだから止むを得ない。
 又一方から見ると作者が創作人物の名前を悠々閑々と思案する……などいう事は今のスピード時代には望まれない事かも知れない。
 作者の道楽かもしくは、お庭の石を彼方《あっち》此方《こっち》と動かしては眺めるのと同じ格の一種の隠居仕事かも知れないと思われる。

 妙なものと云おうか、又はありがたい事と云おうか、ここに一つ不思議な現象がある。
 最初はいい加減な名前で我慢して、そのうちにいい名前を附けてやるつもりで筋を進めて行く中《うち》に、その名前と、その人物が、いつの間にかシックリして来て、到底切り離すことが出来なくなる場合が非常に多い。
 最初は不似合に思っている名前でも原稿紙の十四五枚も書いて行く中《うち》に、その名前を書いただけで、その人物の顔形から、背丈、体格から、その地位、趣味、ステッキやハンドバックの色恰好、その書斎に並んでいる愛読書の種類まで一ペンにズラリと眼の前に浮かみ上って来るようになるので、そうなると、ほかの名前を持って来ても絶対に受付けられなくなる。それを読者に対する気兼ねや何かで、無理にほかの名前に改名させると、全然別人の感じになってしまって全体の筋から書き直さなければならなくなる事が度々《たびたび》である。つまり作者はその名前から受ける感じで筋を運んで行くものらしい事が、ここに於てハッキリと自覚されるので、これは自分ばかりに限った事ではあるまいか、それとも他の作者にも共通した心理現象であろうか時々首をひねってみる事がある位である。

 もう一つ面白いのは主役と端役《はやく》とで名前の附け方が違うことである。
 端役の名前などはドウでもいいと思うのは大変な間違いである。主役の名前はどこでも主役らしく、端役の名前は必ず端役らしく附けて行かなければならぬ事は無論であるが、その主役に対する色どり、対照の軽重なぞを一歩誤ると、読者に余計な注意力を浪費させ、筋の混濁を惹起し、全篇の風姿を打毀すことがあるのだから油断がならない。
 同時に後から主要な役割を受持つ端役の名前は、最初からそうした用意も籠めて名前を選んでおかなければならないのだから、端役の選名といっても中々軽々しく行かないのである。
 おかしいのは赤ちゃんの名前を、やはり赤ちゃんらしく可愛いくしておかなければならないので、そいつが大きくなって悪党になったりする時に非常に困ることがある。

 更にモウ一つ厄介なことに作者がそういった感じをもって選名をしても、読者の方でそう感じない場合を考慮しなければならないという問題があるが、しかしこれはチョット見当が附かないから困る。
 私なぞに云わせると栗島スミ子という名前は中年のインテリ婦人の名前がするし、江川蘭子はスレッ枯らしの有閑令嬢らしい感じがするのであるが、しかし万人が万人、そう感ずるかどうかは疑問である。

 全く閉口するのは西洋人の名前である。外国人の名前の特徴なんか外国語の出来ない私にとっては全然わからないし、況《いわ》んやその名前によって、その髪毛や瞳の色を想像させるような芸当は一生涯出来ないものと諦らめている。
 万止むを得ない場合には世界地図を開いて、その人間の生れ故郷の地名や、附近の地面の発音の特徴をもじって作るよりほかに方法を知らないので、こうして白状するさえ情ない気がする。
 厳密に云うと日本でも、その地方地方で特有の名前がある。
[#天から3字下げ]蛙鳴くや一村姓を同じうす
 という素人俳句が記憶に残っているが、そんな工合で或る地方の出来事を書くに、その地方に有り勝ちの名前ばかりを使って事件を運べば、非常によく実感が出る筈であるが、そこまでは行届かない
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