説は売り物だからそうはいかない。読者を馬鹿にしているといって憤《おこ》られてしまうにきまっている。
 そのほか与謝野オーギスト、今井手川四郎五郎左衛門、股毛一寸六、福田メリ子なんていうのは実在の人物ではあるが、小説の場合ではちょっと通用し難いようである。
 のみならず小説の中の名前の附け方には色々な条件があって、束縛され方が普通の場合よりも甚しい。特に探偵小説の場合に於て、そうした傾向が甚しいように思われる。

 第一の条件というのは自分の書こうと思っている人物の性格や、風采にピッタリした名前でなくてはならぬ事である。もっとも昔の小説だと風采と心が一致している場合が大変に多いのであるが、それはお伽話か神話以来の遺習で、現実味の強い今の小説ではそう手軽く行かないから困る。人は見かけによらぬものという原則に従って、風采の感じと性格の感じとが全然正反対みたような人物が出て来ないと筋の都合が悪いような場合が甚だ多いのであるが、そのような場合でも、そうした矛盾した人物にピッタリと来る名前でなくてはいけない。風采の方にピッタリとする名前を選めば、同時にその正反対の性格の感じも、その中に籠《こ》もっていなければならない。同時にこれに反する場合には、やはりこれに反する条件の下に名前を選まなければならない。さもないと読者はペテンにかけられたような不愉快を心の片隅に残すところがあるのだから、ナカナカ事が面倒である。
 おまけにそこへ作者の好みが附随して来るのだからイヨイヨ事が面倒になる。徳富蘆花は片岡浪子を美人と感ずるかも知れないが、私には大した美人とは感じられない。中年以上のオバサンで好人物には違いないが、或《あるい》は相当のオシャベリではないかとさえ感じられる。それだけ蘆花と久作の頭のネウチが違うのだと笑われたらそれ迄であるが、しかし、それは腕前の問題ではない。個性の問題と思う。

 探偵小説の中では、昔風に悪人と善人とを区別しなければならない場合が非常に多い。ズット昔(今でも歌舞伎なぞ)では悪人の人相が悪く、名前までも毒々しいが、この頃では……特に探偵小説の中では……人相の柔和な、美しい人物が思いもかけぬ大悪党だったり、札附の前科者が善人であったりしなければならない事が多いのだから、そんな感じの名前を最初から考えておく必要がある。衷心から気心の優しそうな名前の人間が、最後に手錠をかけられるような事を書くと、前にも述べたような理由で読者は何となく欺《あざ》むかれたような不満を感ずる虞《おそれ》があるのだからそのヤヤコシイ事一通りでない。

 第二の条件は、その人物の風采が苗字だけ、もしくは名前だけでもスラリと眼に浮ぶような名前を附けなければ損である。もちろんそのうらを行って現実性を強める方法もないではないが、普通の場合、岩山銅蔵という美少年だの、青柳美代吉なんという醜怪な兇漢なぞは落第である。トラ子と花子と二人並べたら花子の方が美人にきまっているし、松子と清子なら清子の方が病身にきまっている。大山壮太郎が小男で、小川一平が雲突く大男と書いたら読者はちょっと首をひねるであろう。

 第三の条件は読者に記憶され易いことである。これは特にむずかしい条件であるが、創作人物の名前を選むについては第一の条件と共に最重要な考慮を払わなければならぬ問題である。
 ……といっても理屈は別にむずかしい事ではない。
 早い話が田中とか、山本とか、林、中村、又は長兵衛、芳夫、太郎、次郎、三郎といったようなアリフレた名前をヤタラに組合わせて並べて行くと、読者はキット途中で作中の人物を混線さしてしまう。筋からハグラかされてアクビを出すか、本を投出すかするところがあるのだから、こんなのは先ず遠慮した方が賢明である。
 そうかといって猫舌とか、鰐口とか、黒手とか赤足とかいったような突飛《とっぴ》な名前を持出すと、その一つでも全篇の実感をワヤにする虞《おそれ》がある。又は長谷倉とか東海林とかいったような稀有の実在名を持出すと振仮名の間違いという恐ろしい危険に陥り易いし、わざとらしい感じが必ず附き纏うのだから万止むを得ない限り使わない方が無難と考えられる。

 第四の条件は実在の名前を……たとえば電話帳などに多く出て来る名前をなるだけ使いたくない事である。
 前にも述べた通り、実在しない突飛な名前を使うと、読者の記憶へは残り易い代りに、この全篇の迫真性を極度に薄める虞《おそ》れが非常に大きい。馬琴などは石亀屋地団太だの鼠川嘉治郎なんていうのを平気で使っているが、今頃使ったら物笑いの程であろう。
 しかし一方に実在の名前をなるたけ使おうとすると困る問題が一つ出て来る。
 これも前述の通り探偵小説では善人と悪人とをハッキリ区別しなければならない場合が非常に多いのだから、善人の場合は
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